おもしろ駅探訪(過去記事その1) [鉄道(実物)]
過去に掲載しました「おもしろ駅探訪」シリーズの閲覧場所①で2013年6月以前の記事を集めています。
<「(京急)品川周辺」 2013年6月22日>
「(京急)品川」と、その前後2駅を取り上げる事に...
駅が出来ましたのは「北品川」が一番古く、「品川」、「泉岳寺」と続きますので、記事もその順に進めて行く事にします。
<「北品川」駅>
1904年(明治37年)、京浜電鉄(京急の前身)の終端駅として開業、当時はここが「品川」駅でした。
赤矢印がそれで、北方の黄矢印が省線「品川」駅
見づらいですが、当時は併用軌道だった様です。
(青い点線の右側)
1925年(大正13年)併用軌道が北に伸び、省線「品川」駅前の国道上に「高輪」駅(青矢印)が開業したのに合わせて、駅名を「北品川」に改称しました。
よく見ますと駅が少し南へ移動し、「北品川」以南は専用軌道に変わっていますね!
この辺りが「高輪」駅跡(左は「(京急)品川駅」)と思われますが、当時は東京市電と線路が繋がっていて、市電が「北品川」まで乗り入れていたとか
駅名の由来は、江戸時代の品川宿が「北品川」~「青物横丁」駅付近に有り、目黒川を挟んで北品川と南品川に分かれいて、
駅は北品川宿の地に有ったためだそうです。
この様に歴史の古い駅なのですが0キロポストはここには無く、構内には「品川」起点の700m距離標が有りました。
<「(京急)品川」駅>
1933年(昭和8年)「高輪」駅を廃止し、省線「品川」駅の隣に「(京急)品川」駅(青矢印)が開業しています。
その際「北品川」~「横浜」を改軌(1372mm→1435mm)し、「浦賀」まで直通運転出来る様になった、との事。
1904年(明治37年)に東京市電へ乗り入れるため、わざわざ改軌(1435mm→1372mm)したものの夢破れて...
と、言った所でしょうか。
もし実現していたら、今どうなっていたんでしょうね~?
「北品川」の北に有るのに駅名が「(京急)品川」なのは変ですが既存の省線「品川」駅の隣に開業しましたので、仕方なかったのかも...
一寸脱線しますが、省線「品川」駅は日本で最初に出来た駅で、計画時点の行政区域が品川県に有ったため、この駅名になったそうです(今の住所は品川区ではなく、港区)。
構内は2面3線(珍しい通過式/頭端式ホームの混合)で、
実際はかなりカーブしており
ホーム中央に安全監視の駅員さんが居ました。
矢印部分に0キロポストが有り(三角が三崎口方向)
その位置のホーム上には、銘板が埋め込まれています。
(こちらはピンボケですが、泉岳寺方の遠景)
<「泉岳寺」駅>
1968年(昭和43年)に、都営地下鉄1号線(現在の浅草線)の終着駅として開業したのに合わせ、京急も品川から北へ延伸し相互乗り入れを開始しました。
と言う事で今ここは京急本線の起点駅なのですが、前出の様に0キロポストは有りません。
駅の所在地は高輪ですが、近くの有名なお寺の名前を採って
「泉岳寺」としたそうです(お寺側とは、最高裁まで争ったとか)。
<「下板橋」駅 2013年6月4日>
昔は板橋区内の駅でしたが
豊島区に移転して、看板に偽り有りとなりました。
こちらが今の地図で、
調べました結果1914年(大正3年)、矢印の場所(板橋区側)に東上鉄道の起点駅として開業、0キロポストもそこに有ります。
(この下り列車の辺りが旧駅の場所で、赤丸が0キロポスト)
元々、「大塚辻町」を起点にする計画でしたが当時の東京市が反対したため、暫定的に「下板橋」を起点駅とし、「池袋」までは支線扱いで敷設されました。
そんな経緯から、ここには東上鉄道の記念碑が建っています。
設置場所は「上板橋」→「池袋」→「下板橋」と移った様ですが、ここに有るのは一番妥当ではないかと...
こちらは時代が下った1931年(昭和6年)の路線図で、この年「下板橋」~「大山」間に「金井窪」駅が開業したのですが、
「下板橋」~「金井窪」間が400mしかなかったのと、この頃には「大塚辻町」への延伸も諦めたのか、1935年(昭和10年)に
「下板橋」駅が、現在の場所に移転しました。
そのため、ホームがカーブ上に有ります。
ところが10年後の1945年(昭和20年)、「金井窪」駅が空襲で被災したため廃止になり、現在の形になったのですが、
これで移転した理由が無くなってしまいました。
(町名は、大山金井町として現存)
2008年(平成19年)になり、旧駅が有った場所に戻し、駅上に大学病院を開設する構想が持ち上がって来たそうで、管理人としては本当に実現するといいな~と思います
最後は0キロポストの話題ですが、撮影は苦戦しました。
駅前の踏み切りから撮った画像(距離200m)で、コンデジではこれが精一杯です m(__)m
こちらのHPに鮮明な画像が載っていますので、ご参考までに http://yukiden.sakura.ne.jp/t-photo/tobu-0kiro/tobu-0kiro.html
位置関係はこんな感じで、本線の北側には建物が並び、
南側は滞泊用の留置線が広がっていました。
列車の先頭部車窓から0キロポストを撮るのが良いのですが、管理人の腕では目標を捕らえる事が出来なかったのです
<「板橋」駅 2013年5月27日>
駅名に「板橋」が付く駅は数が多く、
上の図以外にも神奈川県に「箱根板橋」が有り、全部で8つ。
これは「浦和」と同数で(浦和/東浦和/西浦和/武蔵浦和/中浦和/南浦和/北浦和/浦和美園)、8つと言うと全国的に見てもかなり多い方ではないでしょうか
その中から、JR埼京線「板橋」を取り上げる事にしました。
「板橋」駅の所在地(西口)は板橋区ですが、
東口は北区、
そしてホームの大半は豊島区になります。
管理人は西口のみどりの窓口を良く利用するのですが、早朝のため、まだシャッターが閉まっていました。
調べました所この駅の歴史はかなり古く、1885年(明治18年)日本鉄道/品川線が開通した時から有るそうで、
「東京」駅(1914年:大正3年開業)より古い、との事
西口には、駅前ロータリー/売店/バス停/タクシー乗り場/駅ソバスタンド/公衆トイレと、定番施設が揃っています。
画像の右側が線路で、タクシー乗り場の先に踏み切りが有り、柵にはこんな銘板が付いていました。
「赤羽線」と言うのは埼京線になる前のこの路線の正式名称で、道路は旧中仙道になります(この先、板橋宿に至る)。
大宮方面行きの205系下り列車が来ましたので、パチリ
そして、東京臨海高速鉄道/りんかい線直通列車の後撃ち
踏み切りを渡って1~2分歩くと、こじんまりした東口に着き
駅の向かいには、近藤勇のお墓が有りました。
流山で官軍に捕まり、総督府の有った板橋宿へ連行されてから処刑されましたので、ここにお墓が建てられたそうです。
(遺骨は、別の場所に有るそうですが)
最後に中仙道との立体交差へ行って見ました所
偶々ですが、上下列車の離合を撮れました。
<「(東武)浅草」駅 2013年5月4日>
駅は開業当初から、このビルに入っているのですが
ホーム先端に名物の100Rカーブが有り
外から見るとこの様に先頭2両が建物の外に出て
ガードの右は隅田川に続きます。
正面口を入り
エスカレータを上がると
頭端式ホームが並んでいました。
1番線だけ8両停まれる様ですが、それ以外のホームは6両が限度、しかも直線部分はせいぜい3両分しか有りません
隅田川までの距離が短いのでシーサスは橋梁上に置かれ、
特急の出発と伊勢崎線の到着は同時でも問題無いのですが、
反対の場合はシーサスを渡りますので、発着競合が起きます。
(この時、特急「両毛」は川の手前で信号待ち状態)
これらは、隅田川対岸のアサヒビール本社展望喫茶室から撮影したもので
他にも色々なタイプの列車がやって来ました。
<スペーシア「雅」編成>
<634型「スカイツリートレイン」4連>
制限速度が15キロなので、管理人の腕でも余裕で撮れます
特急専用ホームには日光線直通のスペーシアと、伊勢崎線の「両毛」が入線しており
先頭部に行って見ました所、ドアとホームの隙間が大きいので渡り板が敷かれていました。
こちらは、特急「両毛」3号車の簡易運転台
この列車が所属する南栗橋車両管区館林出張所の検査容量が4両と短いため、分割が必要だとか...
因みに、伊勢崎線の0キロポストは始発駅の「浅草」ではなく、「北千住」駅の4番線壁面に有り
その前のホーム上に、銘板が埋め込まれています。
調べましたら、1899年(明治32年)に「北千住」~「久喜」間を結んだのが、東武鉄道のルーツとの事でした。
<秩父鉄道「樋口」駅 2013年4月25日>
ここはホーム上に駅舎が有ります。
手前から改札小屋・ホーム屋根・駅舎・トイレの順に並び
対角線側から見ると、こんな感じでした。
国道と荒川に挟まれた狭い土地のため、こんな形になったのでしょうか?
ホームは本線と離れた所に有りますが、この線形は長くて重い石灰石運搬列車の交換を第一に考えられたものだそうで、
「羽生」方に、行き違い用の線路が長く延びています。
ホーム上に遮断機が有るのも珍しいですね
11時26分の旅客列車を撮ろうと踏切で待ち構えていましたら運良く、石灰石を満載した上り貨物がやって来ました。
目の前をゴトゴトと通り過ぎ
編成の途中にも、ヲキフが挟まっていますね
そして本線上で停車 と言う事は、ここで列車交換?!
最後尾のヲキフはこんな位置ですが、かまわず踏切の遮断機は上がってしまいました
踏み切り脇には、こんな注意書きも有るのですが
読み方によっては、貨車の後ろを通るのはOKとも取れます。
実際、撮影中その様な地元の方が居ました。
時刻になり再び遮断機が降りると、
旅客列車の交換です。
よく見えませんが、奥の上り列車は車体にリブが沢山有りますので7000系ではないかと...(手前は、下りの7500系)
一瞬の静寂、そして前方の貨車から順番にエアーの抜ける音が近づいて来た後に汽笛一声、そろりと進発して行きました。
デキの運転手さんは、エアーが抜け切る時間を経験的に知っているのでしょうか?
何にせよ、貨物列車の運転は熟練が要るな~と思います
(満載時は、空転も起きますし...)
<西武鉄道「本川越」駅 2013年3月19日>
ここは歴史の古い駅です。
市内に有る名前に「川越」と付く3つの駅の中では、「本川越」が最初に作られました。
こちらは1924年(大正13年)頃の地図で、大分違いますね。
(今のJR川越線は、この時代まだ有りません)
本川越 → ①かはごえ(1895年 明治28年開業)
川越市 → ②かはごえまち(1914年 大正3年開業)
川越 → ③かはごえにしまち (1915年 大正4年開業)
ご覧の様に、当時は「本川越」が「川越」駅だったのです。
1940年(昭和15年)に省線川越線が開通し、「川越西町」駅に乗り入れた時点で駅名が現在の形に変わりました。
構内は2面3線(左端から1番~4番ホーム)有り
こちらは振り返って、「西武新宿」方の先端を撮った所です。
駅を出ると東上線と川越線の高架を潜りますが、東上線の橋脚(矢印)は1914年製と古く、埼玉県指定の近代化遺産、と後で知りました(奥に見えるのが「本川越」駅)
一寸見づらいですが、煉瓦と石で作られているとか
立体交差がネックになり、今もこの区間だけ単線のままです。
線路際の道を辿り、複線になる所まで行って見ました。
900m程先の脇田信号場で漸く複線末端部になり、
続いてポイントが現れ
次駅の「南大塚」は複線になっています(前方が「本川越」方)。
最後に、西武新宿線と東武東上線のツーショットを...
<西武鉄道「国分寺」駅 2013年3月13日>
ここは独自の歴史を持つ、2つの支線が乗り入れています。
調べますと1私鉄の2つの路線が集まる始発駅は意外と無く、東京では「(東急)蒲田」とここ位でした。
「(東急)蒲田」は櫛形頭端構造ですが、「(西武)国分寺」は元々会社が異なる始発駅のため、L字形ホームです。
国分寺線の構内は片面1線、列車は6連、行き先は「東村山」がほとんどで
後は日中のみ1時間に1本、「本川越」行きも有りました。
こちらで線路は終わっていますが、1976年(昭和51年)までは国鉄と繋がっていて貨物列車の受け渡しをしていたそうです。
(現在は、JR武蔵線「新秋津」~西武「所沢」連絡線にて実施)
国分寺線の前身は1895年(明治28年)に「国分寺」~「川越」を結んだ川越鉄道で、
甲武鉄道の関連会社と言う事からか、「飯田町」(「飯田橋」では有りません)~「川越」を直通する列車も走っていました。
現在ここは、西武鉄道の最古路線になっています。
そんな経緯から、国分寺線のキロポストは今でも「本川越」起点だそうで、構内の距離標を探して見ました。
残念ながら700m前方を示す丙号距離標しか無く、キロポスト(甲号距離標)は次駅との間に有るものと思われます。
こちらが「東村山」方になり(右端の線路が国分寺線)、
同じ場所から出発動画も撮りました。
2つ目の多摩湖線も構内は片面1線、列車は4連で、行き先は「萩山」が大半ですが、朝夕のみ「西武遊園地」行きが有ります。
「萩山」寄りに100m前方を示す丙号距離票を見付け
調べました所、旧駅は今より東に有り、ホーム延長のため西へ100m移動した結果と分かりました。
駅前に残された空き地が、昔の駅跡と思われます。
旧駅はホームが短く、17m級3連が充当されていたそうで、
351系の実物写真が無いため、鉄コレで代用しました(^^;
下は、前身の多摩湖鉄道が開業まもない頃の路線図
(1930年(昭和5年)時点)
親会社の箱根土地(後のコクド)が開発した小平学園都市の足を確保するのと、村山貯水池への観光客輸送を目的としたものだったそうです。
<西武鉄道「萩山」駅 2013年3月9日>
ここは拝島線と多摩湖線の接続駅で、
昭和33年に場所が北西方向に移動、線形も変わっています。
下は1946年(昭和21年)頃の地図で
路線図にするとこんな感じになり
当時の駅は、Y字に広がる線路に面した三角ホームだったとか
(画像は、JR鶴見線「浅野」駅の三角ホーム)
1949年(昭和24年)には、多摩湖線が「小平」に繋がり
1958年(昭和33年)、「萩山」駅が北西方向に移転し、国分寺方面から小平へ向かう線路は撤去
1962年(昭和37年)、上水線「小川」~「萩山」間開通に伴い、「萩山」~「小平」間を上水線に編入
1968年(昭和43年)には、「玉川上水」~「拝島」間が開通して上水線は拝島線に改称、現在の路線になりました。
(但し、「多摩湖」→「西武遊園地」は1979年(昭和54年)から)
それでは、駅内外の探索を始めます。
①「小平」方の線路と
②「小平」へ向かう拝島線の列車
③「拝島」方から撮った構内は2面3線(左から3~1番線)有り、ホームは弧を描いていました。
1番線の新101系4連は、当駅始発の多摩湖線「国分寺」行きワンマン列車
④「拝島」方の線路と
多摩湖線/拝島線列車のすれ違い
⑤昔の駅跡地は西武鉄道萩山保線区が置かれ、この辺が廃線部分かと...
⑥敷地反対側を行く、多摩湖線
「萩山」駅は、左前方になります。
<箱根登山鉄道「箱根湯本」駅 2013年3月6日>
ここは、構内が2つの軌間と電圧に分かれています。
1番線は小田急ロマンスカー用(狭軌・直流1500V)
2番線は「小田原」行き普通列車用(狭軌・直流1500V)
3番線は「強羅」行き登山電車用(標準軌・直流750V)
4番線は登山電車用臨時ホームで、標準軌・750Vでした。
訪問しましたのが日曜の昼過ぎと言う事もあって、どのホームも大混雑のため、編成写真は別の所で撮ったものを載せています m(__)m
2番/3番線は2009年まで小田急用(20メートル級6両分)のホームでしたが、中間に車止めが設けられた後は、そこを境に軌間も電圧も異なる形になりました。
2番線は20m級4両分
反対側の3番線は、15m級3両分の有効長です。
車止めの上の架線は直直デッドセクションの様にも見えますが、アップを撮り忘れました
強羅方の見所は、駅を出てすぐに始まる80パーミルの急坂で
登山電車は、この急勾配を苦も無く行き来します。
小田原方の見所は構内図(イ)(ロ)なのですが、ロマンスカーを待つお客さんで大混雑し、ホーム先端に辿り着けません
そこで一駅隣の「入生田(いりうだ)」に移動し、
ゆっくりと3線軌条を撮影する事にしました。
(「箱根湯本」に続く3線軌条)
昔は「小田原」まで3線軌条でしたが、登山電車乗り入れ廃止後車両基地の有る「入生田」までに短縮されています。
こちらは小田原方の3線軌条終端部で、左側の車両基地に入る標準軌と、右側の本線に合流する狭軌に分かれていました。
登山電車専用の車両基地なので、大変コンパクトです。
後で気付きましたが、車両基地入り口にデッドセクション標識が有る様にも見えますので、3つ上の図は誤り(緑線部分の電圧)かもしれません(^^;
<箱根登山鉄道「大平台」駅 2013年2月10日>
ここは山岳スイッチバック駅で、
同線に3つ有るスイッチバックの内、駅はここだけです。
駅舎は国道1号線に面していますが、
ホームは階段(画像の右手)を下りた山の斜面に有りました。
頭端側から見て、左手谷側が1番線(強羅方面)
右手の山側が、2番線(箱根湯本方面)です。
次駅表示が「スイッチバック」と言う所が面白いですね
こちらが頭端部
そしてこちらが反対側の先端部で、
シーサスではなく渡り線を2つ並べた形になっていました。
見ていますと上下列車共、渡り線を使わず駅に進入、出発時に転線する方式です(そのため、同時発車は見られません)。
以上の事を図にすると、こんな感じでしょうか。
こちらは13時42分発「強羅」行きで
この駅での列車交換はせず、出発して行きました。
<「三島」駅 2013年2月4日>
ここは、面白い点が色々有ります。
<その1: 駅の移設>
昔丹那トンネルが出来る前、初代の「三島」駅は御殿場回りの東海道本線上に有りました。
16年の工事期間を要した丹那トンネルが昭和9年(1934年)に開通して、現在の東海道本線上に2代目の「三島」駅が作られ、
初代「三島」駅は「下土狩(しもとがり)」駅と名前を変え、現在に至っています。
「三島」からは伊豆箱根鉄道・駿豆(すんず)線が出ていますが
時を同じくして、ルートを付け替えました。
(当時の名前は駿豆鉄道)
こちらが現在の「下土狩」で、
駅前の道を20分程歩くと、「三島」に着くそうです。
今は1面2線だけのローカル駅で、
駅に隣接したコミュニティセンターの敷地が怪しい気もしますが、
駿豆鉄道線の遺構は、分からず仕舞いでした。
昭和3年の地図を見ますと、赤矢印が初代「三島」駅で、当時の駿豆鉄道線が水色矢印の所ではないか?と思われます。
当然ながら、現在の東海道本線はまだ有りません。
(国際日本文化研究センター 所蔵地図データベースより)
<その2: 直直デッドセクション>
JRの特急「踊り子」は赤点線のルートを通り、伊豆箱根鉄道に乗り入れますが
伊豆箱根鉄道と繋がる渡り線の上には
こんな標識が有り
良く見ますと、小さなデッドセクションになっていました。
両路線の電流混触を防ぐため、とウィキペディアには有りますが昭和25年に国鉄の乗り入れが始まった頃、駿豆鉄道は600Vでしたので必須だったのではないでしょうか?
<その3: 新駅第一号>
三島大社を模した南口駅舎(工事中)に対し
こちらは新幹線側の北口ですが、
東海道新幹線の開業当初、駅は無かったそうです。
5年後に新幹線の新駅第一号として開設された、との事。
<「熱海」駅 2013年1月26日>
現在に至るまでの歴史的経緯が、面白いです。
大正12年(1923年)までは、熱海鉄道と言う軽便鉄道が走っていました。
駅前には、その頃使われた7号機関車が展示されています。
重心を低くして走行を安定させるため、平たいシルエットを持ち
小田原~熱海間を2時間40分掛けて走りました。
関東大震災により、熱海鉄道は壊滅的被害を受けて廃止され
7号機関車は転々とした後、国鉄鷹取工場に標本車として保存されていたそうです。
熱海鉄道の後は国府津(こうづ)から官営の熱海線が建設され大正14年(1925年)、熱海まで延伸されました。
16年の工事期間を要した丹那トンネルが昭和9年(1934年)に開通し、漸く東海道本線の駅になった訳です。
そして昭和62年(1987年)国鉄の分割民営化により、静岡県に有る東海道本線の駅としては唯一、JR東日本が管轄する事になりました。
<「黒磯」駅 2013年1月7日>
ここは交直切替駅のため、それに関する特殊な施設を見る事が出来ます。
こちらは上野方の自由通路から見た駅構内で(上が青森方)
左端は新幹線高架、その下に片面ホームの1番線、その隣が島式ホームの2番線と3番線、中線、一番右が島式ホームの
4番と5番線です。 観察した所では、
1番線は、「宇都宮」方面の普通列車
2番線は、下り貨物の釜付け替え
3番線も、「宇都宮」方面の普通列車
中線は、機関車溜まりへ向かうための機回し用
4番線は、「郡山」方面の普通列車
5番線は、上り貨物の釜付け替え
に使われている様でした。
上の図は、或るホームページに掲載された物を真似たのですが、正確性は追及しないで下さいね(こんな感じ?レベル)
見てお分かりの様に、構内は交直流を切り替えるため数多くのセクションに分かれており、セクション境界の架線に設けられた絶縁部を、セクションインシュレーターと言うそうです。
矢印の間が絶縁部分で、レイアウトで言う所の絶縁ジョイントに当たるのでしょうか
交直切替はこちらの「交直切替断路器」で行い、
スイッチは上の段に有り(箱の後ろ)、下の駆動装置のロッドが上下する事により反転する仕組みでした。
この施設は上野方に置かれスイッチを3つ持ちますが、青森方には5つのスイッチを持つ断路器も有りました。
それではこれから、交直切替の様子を見て行きましょう。
①5番線に、金太郎君が牽く上り貨物が入って来ました。
その時スイッチは、左側の交流電源側に倒れていて、
線路前方に有る架線電源識別標識(矢印)は、橙色横2灯表示(交流20KV加圧)になっています。
②金太郎君が切り離され
③しばらくするとスイッチが、ギーっと言う音と共に1秒程かけて右の直流電源側に反転しました。
その時架線電源識別標識は、紫色縦2灯表示(直流1500V)に変わっています。
④すると今度は、桃太郎君がバックでやって来て
⑤貨物と連結し、出発準備が整いました
黒磯駅を通過する交直両用列車の車上切替デッドセクションも有り、こちらは下り線側の終端部を駅の外から撮った所です。
(赤白縞の標識 後方は直流機溜まり)
架線も撮りましたが、見栄えがしないですね~(^^;
<「大網」駅 2012年12月27日>
ここは線路付け替えのため、駅が西方に移されました。
旧駅の跡は公園になっていて、腕木式信号機の根元に見えますマンションの辺りが現在の駅です。
丁度、「大網」始発の「成東」行き列車が通過して行きました。
看板には駅の由来も載っていますが、
移動が必要になった経緯を、以下に補足します。
「大網」は明治29年、房総鉄道と言う私鉄の始発駅として出来明治40年に国有化された時点では、3方面に伸ばした路線網(現在の外房線、東金線の一部)の中核になっていました。
国有化された後も、大原から先にレールは伸びて行きましたが、「千葉」から外房方面へ直通する列車は「大網」でスイッチバックしなければならない状況が続いたのです。
そこで、昭和47年に駅を西方へ600m程移し、スイッチバックを解消する工事が行われました(最初から2番目の図)。
現在の「大網」駅はV字形になっていて、
外房線と東金線のホームは連絡通路で繋がっています。
外房線「千葉」方の下り線から東金線への分岐部分(矢印)を、 1枚パチリ
こちらは旧「大網」駅から「安房鴨川」方面に伸びていた線路の末端部で
その先は、レールが撤去されていました。
調べますと平成9年まで、貨物列車用の短絡線として使われていたそうです。
<富士急行「富士山」駅 2012年11月16日>
ここは平地のスイッチバック駅です(旧名は「富士吉田」)。
左端が河口湖線、その右側が大月線の線路で
反対側の終端部には、駅ビルも有りました。
内部は2面3線構造で、2番線に下り列車、3番線に上り列車が入る様です。
「大月」から乗って来ました下り列車の1200形マッターホルン号2連は2番線に入って客扱いした後、シーサスを渡り河口湖線に転線し、
「河口湖」始発の「大月」行き1000形2連は3番線に入線して、折り返しシーサスを渡って大月線に入って行きました。
例外的に、JRのホリデー快速河口湖号は6両編成のため
上り/下り列車とも、ホームが長い3番線に入ります。
駅ビルの正面には鳥居が設けられていましたが、これは後述のこの駅の昔の名前から来たものなのでしょうか?
駅前には名物の吉田うどんのお店も有りましたが、残念ながら開店時間には早過ぎました
最後にこの駅がスイッチバック構造になった理由ですが、ウィキで調べました所、明治時代の馬車鉄道は「富士山」のもっと先へ延びていたからだそうです。
また河口湖線が出来たのは、戦後になってからとの事。
<「(東武)柏」駅 2012年8月28日>
ここは平地のスイッチバック駅です。
架線柱の右側が東武野田線、左側がJR常磐線の線路で
反対側の終端部は、こんな感じでした。
内部は2面4線構造で降車ホームは無く、ラッシュ時は混雑して大変なのではないでしょうか?
1番・2番線は「大宮」方面、3番・4番線は「船橋」方面に区分けされていました。
「柏」を跨いで「船橋」~「大宮」方面を直通する列車は構内配線の関係で2番・3番線に入線しますが、それ専用と言う訳でもなく当駅始発列車も使います。
例えばこれは3番線に停車中の6時14分発「船橋」行きですが、当駅始発でした。
因みに野田線の列車は、どれを撮っても8000系6連です
一方2番線の「運河」行きは、当駅を跨いで運行される列車で
「船橋」を5時47分に出発し、「柏」に6時17分着
そして、6時37分に出発して行きました。
<「太田」駅 2012年8月15日>
ここはホームが少し変わっていて、3面6線構造なのに1番から
10番線まで有るのですが、その訳は
伊勢崎線の運転系統がここで分断され、「太田」~「伊勢崎」の区間列車専用ホーム(7番~10番)が1番~4番ホームの先に設けられている、と言うのが種明かしです。
確かに放送で「乗り換えは2番線の伊勢崎寄りにお進み下さい」と言うより、「~8番線にお進み下さい」と言い切った方が分かり易い、と思いました。
こちらは周辺のJR(黒い線)と東武鉄道(カラーの線)の路線図
そしてこちらが、東武の運転系統図です。
地方都市の私鉄駅としてはかなり立派な「太田」駅ですが、
北関東随一の工業都市の玄関口となればさも有りなん、と納得しました(因みにJRは無く、東武鉄道のみの駅)。
コンコース内に設けられたホーム案内板はこんな感じ、そして
こちらは1番ホームと7番ホームの境に有る案内板で、この先に浅草方面の列車が発着します。
丁度9番線には13時43分発、「伊勢崎」行き普通800系3連が入線していて
隣の4番線に到着した13時31分発「赤城」行き特急から降りたお客さんが、乗り換えていました。
<「綾瀬」駅 2012年8月8日>
ここはJR東ではなく、東京メトロの管轄駅です。
東京メトロが綾瀬車両基地を作る時、北千住~綾瀬~北綾瀬の路線を自前で建設したのでそうなった様ですが、常磐線が複線だった1971年(昭和46年)までは国鉄の駅でした。
駅の看板は、こんな形で
券売機は、左隅にJR仕様の物が2台有りますが
残りは、全て東京メトロ仕様です。
そして東京メトロの券売機には、こんなボタンが有りました。
東京メトロの初乗り運賃は160円なのですが、JR東との協定により、「綾瀬」~「北千住」間はJR側に合わせて130円です。
中は2面4線構造で、「北綾瀬」への区間列車用に上りホームを延長した0番線ホームが有りました。
上り線ホームの「亀有」寄りから「北千住」方面を見た所、
同じ場所で振り返ると、0番線ホームです。
<「飯田橋」駅 2012年7月8日>
ここは幾つも面白い点が有ります。
(1)5つの路線(内4本は地下鉄)の接続駅
(2)構内は3つの区に跨り、8層構造
(3)東西南北が揃う
接続する5つの路線は
①JR総武線
②東京メトロ東西線
③東京メトロ有楽町線
④東京メトロ南北線
⑤都営地下鉄大江戸線
の順に作られました。
副都心の渋谷/新宿/池袋でも地下鉄は3本ですから、ここは「大手町」(地下鉄5本)に次ぐ規模、と言う事になり
また、東西線と南北線が接続する唯一の駅です。
駅の有る場所は千代田区/新宿区/文京区の境界に当たり、JR総武線の駅は千代田区に属しますが、
②東京メトロ東西線は 千代田区
③東京メトロ有楽町線は 新宿区
④東京メトロ南北線も 新宿区
⑤都営地下鉄大江戸線は文京区
に分散して作られました。
地上の2層に対して、地下は6層構造になっています。
まずは総武線ですが、やって来ました列車は日曜の5時なので総武線ではなく、中央線の「東京」行きでした。
(飯田橋でも客扱いします)
次に東西線ですが、東葉高速線直通「東葉勝田台」行きの05系10連をパチリ(動画から切り出しましたので、色合いが変?)
3番目の南北線は1面2線構造でホームゲートが有るため、
列車は撮れませんでした
次の有楽町線も1面2線構造でホームゲートも付いていますが、こちらは後付けタイプのため
やって来ました、「和光市」行き10000系10連をパチリ
最後は、一番深い所に有る大江戸線です。 中は1面2線で、「都庁前」行き12-000系8連の出発を、後撃ちしました。
<西武園周辺 2012年6月29日、7月4日>
ここは狭いエリアの中に西武鉄道の4つの支線が集まり、3つの終着駅が有ります。
略図を拡大しますと、これだけのレジャースポットが有りました。
まず「西所沢」11時12分発、「池袋」始発の準急「西武球場前」行き新2000系10連が、狭山線に進入する所から始めます。
こちらは1本後の、11時27分「西所沢」始発「西武球場前」行き新2000系4連で、これに乗って行きました。
狭山線終点「西武球場前」駅の「西所沢」方末端部で、単線から6本の線路が分岐し
中は3面6線構造で、全てのホームが20m級10連用です。
次は「西武球場前」から新交通システムの山口線(レオライナー)に乗り、「西武遊園地」へ向かいました。
昔バッテリーカーの時に乗った記憶は有りますが、その後のミニSL時代は記憶に有る様な無い様な、はっきりしません(^^;
列車は4両編成で、無人ではなくワンマン運転です。
「西武遊園地」駅に着いた所ですが、
中は1面3線構造で、
1番線には、多摩湖線「小平」行きの新2000系4連が停まっていました。
駅前の階段を上がりますと、正面が「西武園ゆうえんち」の中央ゲートです。
「西武遊園地」から10分ほど歩いて、西武園線の「西武園」駅に着きました。 競輪場の有る北口は殺風景ですが
南口は、普通の佇まいです。
中は2面3線構造で、通常は2番線が使われ、右端の1番線は競輪の有る時だけ使われる様でした。
列車は、新101系4連です(終点「武蔵村山」にて撮影)。
<JR鶴見線「浅野」、「海芝浦」駅 2012年6月24日>
「浅野」は鶴見線(本線)の途中駅であると共に、
海芝浦支線の起点で、支線用のホームはカーブ上に有るため三角形をしています(線路配置は略図レベル)。
鶴見寄りから見ました左端が本線ホーム、中央が3番ホーム、右端が4番ホームで
カーブはかなりきついため、
電車のドアとホームの隙間が広目です。
(列車は「鶴見」発「海芝浦」行き、205系1100番台3連)
この列車に乗り「海芝浦」まで行きましたが、途中の「新芝浦」を過ぎますと某社の敷地に入り、線路も単線になりました。
「浅野」から4分ほどで「海芝浦」に到着
ホームは片面1線で、すぐ横は京浜運河です。
「海芝浦」駅もその会社の持ち物で、駅舎(通用門?)の外側に守衛さんが仁王立ちしていました(^^;
社員か関係者以外は駅を出る事は出来ません(駅外側に有る、自動券売機を利用する事は可能)が、駅の前方に某社が作った公園が有り、
一般人も、列車の出発時刻まで過ごす事が出来ます。
<JR鶴見線「武蔵白石」、「大川」駅 2012年6月20日>
「武蔵白石」は鶴見線(本線)の途中駅であると共に、
大川支線の起点なのですが、現在ここからは「大川」行き列車に乗れないのです。
1996年(平成8年)に、「大川」行きのホーム(赤い線の部分)が撤去されてしまったのですが、その理由は
大川支線専用のクモハ12形(17メートル級両運車)が引退し、後を継いだ103系の走行に4番線が支障するから、との事。
今でも大川支線の起点なので0キロポストを探しましたが、草が茂っていて見付けられませんでした
「大川」へ行くため、一つ隣の「安善」駅へ戻ります。
「安善」とは、安田財閥創業者の安田善次郎の名前に由来するそうで、駅に隣接して米軍の貯油施設が有り、横田基地向けの「米タン」が居ました。
「安善」駅の先で上り線に転線後、大川支線に分岐しますので、下り本線とは別の出発信号(右下)が有ります。
205系1100番台3連が「武蔵白石」をかすめ、超低速で終点「大川」駅(左下)へ進入する所をパチリ
構内には片面1線のホームと、
無人の駅舎
そして、使われていない側線が何本も有りました。
駅の周りは工場ばかりで、民家やお店は一軒も有りません。
この列車は8時49分発「鶴見」行きですが、次は17時24分まで無い、という超閑散ぶりです
<西武鉄道池袋線「飯能」駅 2012年6月11日>
ここは、平地のスイッチバック駅です。
右手が「池袋」方(複線)、左端が「西武秩父」方(単線)、そして
ホームの反対側は、先の方で行き止まりになっていました。
かつてはE851が牽引するセメント輸送列車も、ここで方向転換していたのでしょうか?
内部は3面4線構造で1番線から5番線まで有り、
9時49分始発の「池袋」行き急行30000系10連が
1番線ホームから出発する所です。
次は武蔵丘車両基地から出庫して来た2000系ですが、動画の出来が良く有りませんでしたので、使えそうな静止画を切り出しました。
4番線に入線し、9時59分始発の「池袋」行き準急になります。
<「寄居」駅 2012年6月7日>
ここは八高線/秩父鉄道/東武東上線が集まる駅で、改札口が自由通路上の1箇所のため、その中に八高線と東上線用の跨線橋が設けられています。
①唯一の改札口で、駅管轄が秩父鉄道のため、鉄道会社間の乗り換え改札口は有りません。
②改札口右手の券売機で、個々の線名が書かれています
(後から気付きましたが、駅構内の見取り図が有りましたね)
③八高線ホームから撮りました駅本屋と、秩父鉄道ホーム用の階段です。
④八高線用の跨線橋とエレベータです。
⑤八高線用の跨線橋内部です。
⑥東上線用の跨線橋内部です。 乗り換え改札口の代わりに、簡易ICカードリーダが有りました。
おまけは、3線同時着発の動画です。
最初から意図していた訳では無く、8時11分発の下り「三峰口」行きの秩父鉄道が到着する所を撮っていましたら偶然、東上線もやって来て、撮れてしまいました。
撮り終わって駅に戻りかけましたら、今度は八高線が発進して来ましたので、慌てて撮った次第です(^^;
後で時刻表を調べました所、秩父鉄道は8時10分着/11分発、東上線は8時11分着、八高線は8時11分発でした。
<西武鉄道池袋線「池袋」駅 2012年5月29日>
ここの特急列車ホームは、一風変わっています。
駅内部は4面4線構造ですが、小田急の様に特急列車ホームが独立しておらず、一般列車と直列停車する形になっていました。
右端がくだんの7番線ですが、
上の写真位置前方に一般列車が、後方に特急が入ります。
特急の入線から出発までを時系列に撮りましたが、ラッシュ時と言う事で人波が多く、後半コンデジの不調も有り、画像の出来は今ひとつですがご勘弁下さい m(__)m
まず、目白寄りの側線で待機していた特急ちちぶが
専用ホームに入線した所です。
特急の発車前に2本、同ホーム着発の列車が有りました。
こちらが1本目の、8時14分発「保谷」行き各停3000系8連で
2本目は、回送になる2000系8連です。 この辺からコンデジが絶不調に 特急との距離は、車両1両分程度でしょうか?
そして8時30分、「西武秩父」行き特急ちちぶ10000系7連が出発して行きました。
実はこの画像、1本前の7時30分発の画像でして、8時30分に撮りました方はコンデジ不調のため、写っていませんでした
また、8時30分の直前に隣の6番線に到着した列車からの下車客でホームがごった返していた、と言う別の事情も有ります。
<「小竹向原」駅 2012年5月15日>
駅の場所が練馬区小竹(こたけ)町と板橋区向原(むかいはら)に跨るため、この名前になったそうです。
家から近いので、またまた原チャリで行って来ました
普段利用されない方も、数年前この駅が原因となって何日間もダイヤが乱れ、マスコミを賑わしたのを覚えてらっしゃるのでは ないでしょうか?
ここは4系統の列車が離合集散する地下鉄のジャンクションで、それを聞いただけで早くもトラブルの予感が...
路線数は東京メトロ有楽町線/副都心線、西武有楽町線の3本になり、「小竹向原」から「池袋」までの間は2層式の地下複々線(有楽町線が上)です。
また、「和光市」「小竹向原」の間は唯の複線ですが、東京メトロ有楽町線と副都心線の共用扱い、との事。
構内配線はこんな感じになっており、
一番目の系統図と合わせて御覧頂くとお分かりの様に、駅右手において一部系統の列車が平面交差する 事になります。
結果、運転調整しずらい欠点が生じ、その対策用にダンパー線区間を設けた、との事。
ダンパーとは緩衝装置の意味で、遅れが生じた時はこの区間に列車を退避させ、次の列車を駅に進入・客扱い出来る様にするためのものだそうです(6線構造になっていますね)。
これだけ準備しても2008年の副都心線開業時には、慢性的な遅れが生じ、連日マスコミを賑わせました。
流石に最近は運転指令も慣れて来たのか、マスコミに取り上げられる事も無くなった様です
ホームは2面4線構造で、方向統合されていました。
こちらは上りホーム1番線で、列車は副都心線「渋谷」行き各停東京メトロ7000系8連の最後尾ですが、
副都心線内はワンマン運転になるため、車掌さんはここで下車します。
同じく1番線ですが、今度は有楽町線「新木場」行きの東京メトロ10000系10連で、
有楽町線はワンマン運転せず、車掌さんは乗ったままでした。
こちらは2番線の、副都心線「渋谷」行き急行の東武50070系 10連で(やはり車掌さんは、下車していますね)、
急行は、「池袋」までの途中駅「千川」「要町」を通過します。
時刻は日曜日の6時台でしたが、電車は引っ切り無しにやって来ました。
<東急「蒲田」駅 2012年4月23日>
2路線が発着する、頭端式ホームのターミナル駅です。
この構造の駅は阪急「梅田」が有名ですが、東京の私鉄には中々無いので取り上げました。
東京ではここ以外に、西武「国分寺」も2路線の発着駅ですが、きれいな櫛形構造にはなっていません。
ホーム先端から撮った、1番線に停車中の池上線「五反田」行き7000系(2代目)3連です。
池上線・多摩川線ともワンマン運転のため、ホームに安全柵が設置されていました(降車ホームには無い様です)。
その右手に2番線、降車ホーム、3番線と続きますが、一番右の4番線はカメラに入りませんので、
そこだけ別に、降車ホームの根元側から撮りました。
停まっているのは多摩川線「多摩川」行き7700系3連で、
前身の7000系(初代)共々、地方私鉄で良く見かけますね
多摩川線は元の目蒲線(目黒~蒲田)の一部で、その目蒲線は東急発祥の路線だそうです。
2000年に「目蒲線」が「目黒線」と「多摩川線」に分かれるまで路線網はこんな感じでしたが、
その後、この様に変わりました。
田園調布~日吉間は複々線になっています。
<小田急江ノ島線「藤沢」駅 2012年4月11日>
平地のスイッチバック駅です。
ホーム有効長は1番線が10両、その他は6両でした。
右端の特急が入線しているのが1番線、中央が2番/3番線、左端の普通列車が居る所が4番線です。
新宿方面からの急行が、東海道本線(右手)をオーバークロスし1番線に進入する所を撮りました。
左端の線が片瀬江ノ島への線、その右手は2本に分岐し、片瀬江ノ島方からの上り線と新宿方面への上り線になります。
(右端は、保線車両用の引込み線)
平地駅をスイッチバックにする場合は何かしらの理由が有る訳ですが、調べますと当時の鉄道省の指導によるものでした。
「藤沢」に進入してそのまま「片瀬江ノ島」へ向かうと、江ノ電と同じ経路になってしまうので別ルートにするためスイッチバックにせざるを得なかったとの事です。
<JR飯田線「豊橋」駅 2012年3月18日>
右手ホーム右側の3番線に名鉄が発着しますが、JRとの間に乗り換え改札口が有りません(精算出札の窓口は有ります)。
飯田線前身の豊川鉄道の時代から、豊橋駅共同使用の歴史が有るためでしょうか?
<JR飯田線「小和田(こわだ)」駅 2012年3月18日>
秘境駅ランキング2位で車が通れる道が無いとの事。 ホームに「三県境界駅」の表示が有りました(左端の柱下部)。
駅の有る場所は静岡県、川向こうが愛知県、そして右手方向がすぐ長野県だそうです。
<秩父鉄道「小前田(おまえだ)」駅 2011年7月15日>
寄居の2駅手前(羽生寄り)に有りますが、
車内アナウンスは「次は、おまえだ おまえだ です」と言うのでしょうか?
手前が駅舎に続くホームで、下り(三峰口方面)列車が止まる様です。 奥に見えるホームは、上り(羽生方面)用でした。
2本のホームは向かい合わせではなく筋交いに配置され、後で調べましたら「千鳥式ホーム」と言うのだそうです。 この配置のメリットは、タブレット交換が楽との事でした。
<JR指宿枕崎線「枕崎」駅 2011年1月26日>
以前は「日本最南端始発・終着駅」だったのですが、沖縄の那覇にモノレールが出来ましたので、「JR」が追加されたそうです。
因みに「JR日本最南端の駅」は、同線の「西大山」です。
<伊予鉄道「古町(こまち)」駅 2010年12月16日>
鉄道線の高浜線と軌道線の接続駅で、鉄道線/軌道線両方の車庫が有りました。
写っているのは、鉄道線の700系(元京王電鉄5000系)で、
軌道線の方はこの付近、単線の専用軌道です。
手前のホームは軌道線用で、赤い矢印の様に軌道線と鉄道線が平面交差していました。
写真では分かりにくいのですが、右手側に何本も有る鉄道線の線路を、単線の軌道線の線路が斜めに横切る構図です。
他所では中々見られない光景ですが、鉄道線の電圧が600Vで軌道線と同じ、というのが種明かしでした
<「(京急)品川周辺」 2013年6月22日>
「(京急)品川」と、その前後2駅を取り上げる事に...
駅が出来ましたのは「北品川」が一番古く、「品川」、「泉岳寺」と続きますので、記事もその順に進めて行く事にします。
<「北品川」駅>
1904年(明治37年)、京浜電鉄(京急の前身)の終端駅として開業、当時はここが「品川」駅でした。
赤矢印がそれで、北方の黄矢印が省線「品川」駅
見づらいですが、当時は併用軌道だった様です。
(青い点線の右側)
1925年(大正13年)併用軌道が北に伸び、省線「品川」駅前の国道上に「高輪」駅(青矢印)が開業したのに合わせて、駅名を「北品川」に改称しました。
よく見ますと駅が少し南へ移動し、「北品川」以南は専用軌道に変わっていますね!
この辺りが「高輪」駅跡(左は「(京急)品川駅」)と思われますが、当時は東京市電と線路が繋がっていて、市電が「北品川」まで乗り入れていたとか
駅名の由来は、江戸時代の品川宿が「北品川」~「青物横丁」駅付近に有り、目黒川を挟んで北品川と南品川に分かれいて、
駅は北品川宿の地に有ったためだそうです。
この様に歴史の古い駅なのですが0キロポストはここには無く、構内には「品川」起点の700m距離標が有りました。
<「(京急)品川」駅>
1933年(昭和8年)「高輪」駅を廃止し、省線「品川」駅の隣に「(京急)品川」駅(青矢印)が開業しています。
その際「北品川」~「横浜」を改軌(1372mm→1435mm)し、「浦賀」まで直通運転出来る様になった、との事。
1904年(明治37年)に東京市電へ乗り入れるため、わざわざ改軌(1435mm→1372mm)したものの夢破れて...
と、言った所でしょうか。
もし実現していたら、今どうなっていたんでしょうね~?
「北品川」の北に有るのに駅名が「(京急)品川」なのは変ですが既存の省線「品川」駅の隣に開業しましたので、仕方なかったのかも...
一寸脱線しますが、省線「品川」駅は日本で最初に出来た駅で、計画時点の行政区域が品川県に有ったため、この駅名になったそうです(今の住所は品川区ではなく、港区)。
構内は2面3線(珍しい通過式/頭端式ホームの混合)で、
実際はかなりカーブしており
ホーム中央に安全監視の駅員さんが居ました。
矢印部分に0キロポストが有り(三角が三崎口方向)
その位置のホーム上には、銘板が埋め込まれています。
(こちらはピンボケですが、泉岳寺方の遠景)
<「泉岳寺」駅>
1968年(昭和43年)に、都営地下鉄1号線(現在の浅草線)の終着駅として開業したのに合わせ、京急も品川から北へ延伸し相互乗り入れを開始しました。
と言う事で今ここは京急本線の起点駅なのですが、前出の様に0キロポストは有りません。
駅の所在地は高輪ですが、近くの有名なお寺の名前を採って
「泉岳寺」としたそうです(お寺側とは、最高裁まで争ったとか)。
<「下板橋」駅 2013年6月4日>
昔は板橋区内の駅でしたが
豊島区に移転して、看板に偽り有りとなりました。
こちらが今の地図で、
調べました結果1914年(大正3年)、矢印の場所(板橋区側)に東上鉄道の起点駅として開業、0キロポストもそこに有ります。
(この下り列車の辺りが旧駅の場所で、赤丸が0キロポスト)
元々、「大塚辻町」を起点にする計画でしたが当時の東京市が反対したため、暫定的に「下板橋」を起点駅とし、「池袋」までは支線扱いで敷設されました。
そんな経緯から、ここには東上鉄道の記念碑が建っています。
設置場所は「上板橋」→「池袋」→「下板橋」と移った様ですが、ここに有るのは一番妥当ではないかと...
こちらは時代が下った1931年(昭和6年)の路線図で、この年「下板橋」~「大山」間に「金井窪」駅が開業したのですが、
「下板橋」~「金井窪」間が400mしかなかったのと、この頃には「大塚辻町」への延伸も諦めたのか、1935年(昭和10年)に
「下板橋」駅が、現在の場所に移転しました。
そのため、ホームがカーブ上に有ります。
ところが10年後の1945年(昭和20年)、「金井窪」駅が空襲で被災したため廃止になり、現在の形になったのですが、
これで移転した理由が無くなってしまいました。
(町名は、大山金井町として現存)
2008年(平成19年)になり、旧駅が有った場所に戻し、駅上に大学病院を開設する構想が持ち上がって来たそうで、管理人としては本当に実現するといいな~と思います
最後は0キロポストの話題ですが、撮影は苦戦しました。
駅前の踏み切りから撮った画像(距離200m)で、コンデジではこれが精一杯です m(__)m
こちらのHPに鮮明な画像が載っていますので、ご参考までに http://yukiden.sakura.ne.jp/t-photo/tobu-0kiro/tobu-0kiro.html
位置関係はこんな感じで、本線の北側には建物が並び、
南側は滞泊用の留置線が広がっていました。
列車の先頭部車窓から0キロポストを撮るのが良いのですが、管理人の腕では目標を捕らえる事が出来なかったのです
<「板橋」駅 2013年5月27日>
駅名に「板橋」が付く駅は数が多く、
上の図以外にも神奈川県に「箱根板橋」が有り、全部で8つ。
これは「浦和」と同数で(浦和/東浦和/西浦和/武蔵浦和/中浦和/南浦和/北浦和/浦和美園)、8つと言うと全国的に見てもかなり多い方ではないでしょうか
その中から、JR埼京線「板橋」を取り上げる事にしました。
「板橋」駅の所在地(西口)は板橋区ですが、
東口は北区、
そしてホームの大半は豊島区になります。
管理人は西口のみどりの窓口を良く利用するのですが、早朝のため、まだシャッターが閉まっていました。
調べました所この駅の歴史はかなり古く、1885年(明治18年)日本鉄道/品川線が開通した時から有るそうで、
「東京」駅(1914年:大正3年開業)より古い、との事
西口には、駅前ロータリー/売店/バス停/タクシー乗り場/駅ソバスタンド/公衆トイレと、定番施設が揃っています。
画像の右側が線路で、タクシー乗り場の先に踏み切りが有り、柵にはこんな銘板が付いていました。
「赤羽線」と言うのは
大宮方面行きの205系下り列車が来ましたので、パチリ
そして、東京臨海高速鉄道/りんかい線直通列車の後撃ち
踏み切りを渡って1~2分歩くと、こじんまりした東口に着き
駅の向かいには、近藤勇のお墓が有りました。
流山で官軍に捕まり、総督府の有った板橋宿へ連行されてから処刑されましたので、ここにお墓が建てられたそうです。
(遺骨は、別の場所に有るそうですが)
最後に中仙道との立体交差へ行って見ました所
偶々ですが、上下列車の離合を撮れました。
<「(東武)浅草」駅 2013年5月4日>
駅は開業当初から、このビルに入っているのですが
ホーム先端に名物の100Rカーブが有り
外から見るとこの様に先頭2両が建物の外に出て
ガードの右は隅田川に続きます。
正面口を入り
エスカレータを上がると
頭端式ホームが並んでいました。
1番線だけ8両停まれる様ですが、それ以外のホームは6両が限度、しかも直線部分はせいぜい3両分しか有りません
隅田川までの距離が短いのでシーサスは橋梁上に置かれ、
特急の出発と伊勢崎線の到着は同時でも問題無いのですが、
反対の場合はシーサスを渡りますので、発着競合が起きます。
(この時、特急「両毛」は川の手前で信号待ち状態)
これらは、隅田川対岸のアサヒビール本社展望喫茶室から撮影したもので
他にも色々なタイプの列車がやって来ました。
<スペーシア「雅」編成>
<634型「スカイツリートレイン」4連>
制限速度が15キロなので、管理人の腕でも余裕で撮れます
特急専用ホームには日光線直通のスペーシアと、伊勢崎線の「両毛」が入線しており
先頭部に行って見ました所、ドアとホームの隙間が大きいので渡り板が敷かれていました。
こちらは、特急「両毛」3号車の簡易運転台
この列車が所属する南栗橋車両管区館林出張所の検査容量が4両と短いため、分割が必要だとか...
因みに、伊勢崎線の0キロポストは始発駅の「浅草」ではなく、「北千住」駅の4番線壁面に有り
その前のホーム上に、銘板が埋め込まれています。
調べましたら、1899年(明治32年)に「北千住」~「久喜」間を結んだのが、東武鉄道のルーツとの事でした。
<秩父鉄道「樋口」駅 2013年4月25日>
ここはホーム上に駅舎が有ります。
手前から改札小屋・ホーム屋根・駅舎・トイレの順に並び
対角線側から見ると、こんな感じでした。
国道と荒川に挟まれた狭い土地のため、こんな形になったのでしょうか?
ホームは本線と離れた所に有りますが、この線形は長くて重い石灰石運搬列車の交換を第一に考えられたものだそうで、
「羽生」方に、行き違い用の線路が長く延びています。
ホーム上に遮断機が有るのも珍しいですね
11時26分の旅客列車を撮ろうと踏切で待ち構えていましたら運良く、石灰石を満載した上り貨物がやって来ました。
目の前をゴトゴトと通り過ぎ
編成の途中にも、ヲキフが挟まっていますね
そして本線上で停車 と言う事は、ここで列車交換?!
最後尾のヲキフはこんな位置ですが、かまわず踏切の遮断機は上がってしまいました
踏み切り脇には、こんな注意書きも有るのですが
読み方によっては、貨車の後ろを通るのはOKとも取れます。
実際、撮影中その様な地元の方が居ました。
時刻になり再び遮断機が降りると、
旅客列車の交換です。
よく見えませんが、奥の上り列車は車体にリブが沢山有りますので7000系ではないかと...(手前は、下りの7500系)
一瞬の静寂、そして前方の貨車から順番にエアーの抜ける音が近づいて来た後に汽笛一声、そろりと進発して行きました。
デキの運転手さんは、エアーが抜け切る時間を経験的に知っているのでしょうか?
何にせよ、貨物列車の運転は熟練が要るな~と思います
(満載時は、空転も起きますし...)
<西武鉄道「本川越」駅 2013年3月19日>
ここは歴史の古い駅です。
市内に有る名前に「川越」と付く3つの駅の中では、「本川越」が最初に作られました。
こちらは1924年(大正13年)頃の地図で、大分違いますね。
(今のJR川越線は、この時代まだ有りません)
本川越 → ①かはごえ(1895年 明治28年開業)
川越市 → ②かはごえまち(1914年 大正3年開業)
川越 → ③かはごえにしまち (1915年 大正4年開業)
ご覧の様に、当時は「本川越」が「川越」駅だったのです。
1940年(昭和15年)に省線川越線が開通し、「川越西町」駅に乗り入れた時点で駅名が現在の形に変わりました。
構内は2面3線(左端から1番~4番ホーム)有り
こちらは振り返って、「西武新宿」方の先端を撮った所です。
駅を出ると東上線と川越線の高架を潜りますが、東上線の橋脚(矢印)は1914年製と古く、埼玉県指定の近代化遺産、と後で知りました(奥に見えるのが「本川越」駅)
一寸見づらいですが、煉瓦と石で作られているとか
立体交差がネックになり、今もこの区間だけ単線のままです。
線路際の道を辿り、複線になる所まで行って見ました。
900m程先の脇田信号場で漸く複線末端部になり、
続いてポイントが現れ
次駅の「南大塚」は複線になっています(前方が「本川越」方)。
最後に、西武新宿線と東武東上線のツーショットを...
<西武鉄道「国分寺」駅 2013年3月13日>
ここは独自の歴史を持つ、2つの支線が乗り入れています。
調べますと1私鉄の2つの路線が集まる始発駅は意外と無く、東京では「(東急)蒲田」とここ位でした。
「(東急)蒲田」は櫛形頭端構造ですが、「(西武)国分寺」は元々会社が異なる始発駅のため、L字形ホームです。
国分寺線の構内は片面1線、列車は6連、行き先は「東村山」がほとんどで
後は日中のみ1時間に1本、「本川越」行きも有りました。
こちらで線路は終わっていますが、1976年(昭和51年)までは国鉄と繋がっていて貨物列車の受け渡しをしていたそうです。
(現在は、JR武蔵線「新秋津」~西武「所沢」連絡線にて実施)
国分寺線の前身は1895年(明治28年)に「国分寺」~「川越」を結んだ川越鉄道で、
甲武鉄道の関連会社と言う事からか、「飯田町」(「飯田橋」では有りません)~「川越」を直通する列車も走っていました。
現在ここは、西武鉄道の最古路線になっています。
そんな経緯から、国分寺線のキロポストは今でも「本川越」起点だそうで、構内の距離標を探して見ました。
残念ながら700m前方を示す丙号距離標しか無く、キロポスト(甲号距離標)は次駅との間に有るものと思われます。
こちらが「東村山」方になり(右端の線路が国分寺線)、
同じ場所から出発動画も撮りました。
2つ目の多摩湖線も構内は片面1線、列車は4連で、行き先は「萩山」が大半ですが、朝夕のみ「西武遊園地」行きが有ります。
「萩山」寄りに100m前方を示す丙号距離票を見付け
調べました所、旧駅は今より東に有り、ホーム延長のため西へ100m移動した結果と分かりました。
駅前に残された空き地が、昔の駅跡と思われます。
旧駅はホームが短く、17m級3連が充当されていたそうで、
351系の実物写真が無いため、鉄コレで代用しました(^^;
下は、前身の多摩湖鉄道が開業まもない頃の路線図
(1930年(昭和5年)時点)
親会社の箱根土地(後のコクド)が開発した小平学園都市の足を確保するのと、村山貯水池への観光客輸送を目的としたものだったそうです。
<西武鉄道「萩山」駅 2013年3月9日>
ここは拝島線と多摩湖線の接続駅で、
昭和33年に場所が北西方向に移動、線形も変わっています。
下は1946年(昭和21年)頃の地図で
路線図にするとこんな感じになり
当時の駅は、Y字に広がる線路に面した三角ホームだったとか
(画像は、JR鶴見線「浅野」駅の三角ホーム)
1949年(昭和24年)には、多摩湖線が「小平」に繋がり
1958年(昭和33年)、「萩山」駅が北西方向に移転し、国分寺方面から小平へ向かう線路は撤去
1962年(昭和37年)、上水線「小川」~「萩山」間開通に伴い、「萩山」~「小平」間を上水線に編入
1968年(昭和43年)には、「玉川上水」~「拝島」間が開通して上水線は拝島線に改称、現在の路線になりました。
(但し、「多摩湖」→「西武遊園地」は1979年(昭和54年)から)
それでは、駅内外の探索を始めます。
①「小平」方の線路と
②「小平」へ向かう拝島線の列車
③「拝島」方から撮った構内は2面3線(左から3~1番線)有り、ホームは弧を描いていました。
1番線の新101系4連は、当駅始発の多摩湖線「国分寺」行きワンマン列車
④「拝島」方の線路と
多摩湖線/拝島線列車のすれ違い
⑤昔の駅跡地は西武鉄道萩山保線区が置かれ、この辺が廃線部分かと...
⑥敷地反対側を行く、多摩湖線
「萩山」駅は、左前方になります。
<箱根登山鉄道「箱根湯本」駅 2013年3月6日>
ここは、構内が2つの軌間と電圧に分かれています。
1番線は小田急ロマンスカー用(狭軌・直流1500V)
2番線は「小田原」行き普通列車用(狭軌・直流1500V)
3番線は「強羅」行き登山電車用(標準軌・直流750V)
4番線は登山電車用臨時ホームで、標準軌・750Vでした。
訪問しましたのが日曜の昼過ぎと言う事もあって、どのホームも大混雑のため、編成写真は別の所で撮ったものを載せています m(__)m
2番/3番線は2009年まで小田急用(20メートル級6両分)のホームでしたが、中間に車止めが設けられた後は、そこを境に軌間も電圧も異なる形になりました。
2番線は20m級4両分
反対側の3番線は、15m級3両分の有効長です。
車止めの上の架線は直直デッドセクションの様にも見えますが、アップを撮り忘れました
強羅方の見所は、駅を出てすぐに始まる80パーミルの急坂で
登山電車は、この急勾配を苦も無く行き来します。
小田原方の見所は構内図(イ)(ロ)なのですが、ロマンスカーを待つお客さんで大混雑し、ホーム先端に辿り着けません
そこで一駅隣の「入生田(いりうだ)」に移動し、
ゆっくりと3線軌条を撮影する事にしました。
(「箱根湯本」に続く3線軌条)
昔は「小田原」まで3線軌条でしたが、登山電車乗り入れ廃止後車両基地の有る「入生田」までに短縮されています。
こちらは小田原方の3線軌条終端部で、左側の車両基地に入る標準軌と、右側の本線に合流する狭軌に分かれていました。
登山電車専用の車両基地なので、大変コンパクトです。
後で気付きましたが、車両基地入り口にデッドセクション標識が有る様にも見えますので、3つ上の図は誤り(緑線部分の電圧)かもしれません(^^;
<箱根登山鉄道「大平台」駅 2013年2月10日>
ここは山岳スイッチバック駅で、
同線に3つ有るスイッチバックの内、駅はここだけです。
駅舎は国道1号線に面していますが、
ホームは階段(画像の右手)を下りた山の斜面に有りました。
頭端側から見て、左手谷側が1番線(強羅方面)
右手の山側が、2番線(箱根湯本方面)です。
次駅表示が「スイッチバック」と言う所が面白いですね
こちらが頭端部
そしてこちらが反対側の先端部で、
シーサスではなく渡り線を2つ並べた形になっていました。
見ていますと上下列車共、渡り線を使わず駅に進入、出発時に転線する方式です(そのため、同時発車は見られません)。
以上の事を図にすると、こんな感じでしょうか。
こちらは13時42分発「強羅」行きで
この駅での列車交換はせず、出発して行きました。
<「三島」駅 2013年2月4日>
ここは、面白い点が色々有ります。
<その1: 駅の移設>
昔丹那トンネルが出来る前、初代の「三島」駅は御殿場回りの東海道本線上に有りました。
16年の工事期間を要した丹那トンネルが昭和9年(1934年)に開通して、現在の東海道本線上に2代目の「三島」駅が作られ、
初代「三島」駅は「下土狩(しもとがり)」駅と名前を変え、現在に至っています。
「三島」からは伊豆箱根鉄道・駿豆(すんず)線が出ていますが
時を同じくして、ルートを付け替えました。
(当時の名前は駿豆鉄道)
こちらが現在の「下土狩」で、
駅前の道を20分程歩くと、「三島」に着くそうです。
今は1面2線だけのローカル駅で、
駅に隣接したコミュニティセンターの敷地が怪しい気もしますが、
駿豆鉄道線の遺構は、分からず仕舞いでした。
昭和3年の地図を見ますと、赤矢印が初代「三島」駅で、当時の駿豆鉄道線が水色矢印の所ではないか?と思われます。
当然ながら、現在の東海道本線はまだ有りません。
(国際日本文化研究センター 所蔵地図データベースより)
<その2: 直直デッドセクション>
JRの特急「踊り子」は赤点線のルートを通り、伊豆箱根鉄道に乗り入れますが
伊豆箱根鉄道と繋がる渡り線の上には
こんな標識が有り
良く見ますと、小さなデッドセクションになっていました。
両路線の電流混触を防ぐため、とウィキペディアには有りますが昭和25年に国鉄の乗り入れが始まった頃、駿豆鉄道は600Vでしたので必須だったのではないでしょうか?
<その3: 新駅第一号>
三島大社を模した南口駅舎(工事中)に対し
こちらは新幹線側の北口ですが、
東海道新幹線の開業当初、駅は無かったそうです。
5年後に新幹線の新駅第一号として開設された、との事。
<「熱海」駅 2013年1月26日>
現在に至るまでの歴史的経緯が、面白いです。
大正12年(1923年)までは、熱海鉄道と言う軽便鉄道が走っていました。
駅前には、その頃使われた7号機関車が展示されています。
重心を低くして走行を安定させるため、平たいシルエットを持ち
小田原~熱海間を2時間40分掛けて走りました。
関東大震災により、熱海鉄道は壊滅的被害を受けて廃止され
7号機関車は転々とした後、国鉄鷹取工場に標本車として保存されていたそうです。
熱海鉄道の後は国府津(こうづ)から官営の熱海線が建設され大正14年(1925年)、熱海まで延伸されました。
16年の工事期間を要した丹那トンネルが昭和9年(1934年)に開通し、漸く東海道本線の駅になった訳です。
そして昭和62年(1987年)国鉄の分割民営化により、静岡県に有る東海道本線の駅としては唯一、JR東日本が管轄する事になりました。
<「黒磯」駅 2013年1月7日>
ここは交直切替駅のため、それに関する特殊な施設を見る事が出来ます。
こちらは上野方の自由通路から見た駅構内で(上が青森方)
左端は新幹線高架、その下に片面ホームの1番線、その隣が島式ホームの2番線と3番線、中線、一番右が島式ホームの
4番と5番線です。 観察した所では、
1番線は、「宇都宮」方面の普通列車
2番線は、下り貨物の釜付け替え
3番線も、「宇都宮」方面の普通列車
中線は、機関車溜まりへ向かうための機回し用
4番線は、「郡山」方面の普通列車
5番線は、上り貨物の釜付け替え
に使われている様でした。
上の図は、或るホームページに掲載された物を真似たのですが、正確性は追及しないで下さいね(こんな感じ?レベル)
見てお分かりの様に、構内は交直流を切り替えるため数多くのセクションに分かれており、セクション境界の架線に設けられた絶縁部を、セクションインシュレーターと言うそうです。
矢印の間が絶縁部分で、レイアウトで言う所の絶縁ジョイントに当たるのでしょうか
交直切替はこちらの「交直切替断路器」で行い、
スイッチは上の段に有り(箱の後ろ)、下の駆動装置のロッドが上下する事により反転する仕組みでした。
この施設は上野方に置かれスイッチを3つ持ちますが、青森方には5つのスイッチを持つ断路器も有りました。
それではこれから、交直切替の様子を見て行きましょう。
①5番線に、金太郎君が牽く上り貨物が入って来ました。
その時スイッチは、左側の交流電源側に倒れていて、
線路前方に有る架線電源識別標識(矢印)は、橙色横2灯表示(交流20KV加圧)になっています。
②金太郎君が切り離され
③しばらくするとスイッチが、ギーっと言う音と共に1秒程かけて右の直流電源側に反転しました。
その時架線電源識別標識は、紫色縦2灯表示(直流1500V)に変わっています。
④すると今度は、桃太郎君がバックでやって来て
⑤貨物と連結し、出発準備が整いました
黒磯駅を通過する交直両用列車の車上切替デッドセクションも有り、こちらは下り線側の終端部を駅の外から撮った所です。
(赤白縞の標識 後方は直流機溜まり)
架線も撮りましたが、見栄えがしないですね~(^^;
<「大網」駅 2012年12月27日>
ここは線路付け替えのため、駅が西方に移されました。
旧駅の跡は公園になっていて、腕木式信号機の根元に見えますマンションの辺りが現在の駅です。
丁度、「大網」始発の「成東」行き列車が通過して行きました。
看板には駅の由来も載っていますが、
移動が必要になった経緯を、以下に補足します。
「大網」は明治29年、房総鉄道と言う私鉄の始発駅として出来明治40年に国有化された時点では、3方面に伸ばした路線網(現在の外房線、東金線の一部)の中核になっていました。
国有化された後も、大原から先にレールは伸びて行きましたが、「千葉」から外房方面へ直通する列車は「大網」でスイッチバックしなければならない状況が続いたのです。
そこで、昭和47年に駅を西方へ600m程移し、スイッチバックを解消する工事が行われました(最初から2番目の図)。
現在の「大網」駅はV字形になっていて、
外房線と東金線のホームは連絡通路で繋がっています。
外房線「千葉」方の下り線から東金線への分岐部分(矢印)を、 1枚パチリ
こちらは旧「大網」駅から「安房鴨川」方面に伸びていた線路の末端部で
その先は、レールが撤去されていました。
調べますと平成9年まで、貨物列車用の短絡線として使われていたそうです。
<富士急行「富士山」駅 2012年11月16日>
ここは平地のスイッチバック駅です(旧名は「富士吉田」)。
左端が河口湖線、その右側が大月線の線路で
反対側の終端部には、駅ビルも有りました。
内部は2面3線構造で、2番線に下り列車、3番線に上り列車が入る様です。
「大月」から乗って来ました下り列車の1200形マッターホルン号2連は2番線に入って客扱いした後、シーサスを渡り河口湖線に転線し、
「河口湖」始発の「大月」行き1000形2連は3番線に入線して、折り返しシーサスを渡って大月線に入って行きました。
例外的に、JRのホリデー快速河口湖号は6両編成のため
上り/下り列車とも、ホームが長い3番線に入ります。
駅ビルの正面には鳥居が設けられていましたが、これは後述のこの駅の昔の名前から来たものなのでしょうか?
駅前には名物の吉田うどんのお店も有りましたが、残念ながら開店時間には早過ぎました
最後にこの駅がスイッチバック構造になった理由ですが、ウィキで調べました所、明治時代の馬車鉄道は「富士山」のもっと先へ延びていたからだそうです。
また河口湖線が出来たのは、戦後になってからとの事。
<「(東武)柏」駅 2012年8月28日>
ここは平地のスイッチバック駅です。
架線柱の右側が東武野田線、左側がJR常磐線の線路で
反対側の終端部は、こんな感じでした。
内部は2面4線構造で降車ホームは無く、ラッシュ時は混雑して大変なのではないでしょうか?
1番・2番線は「大宮」方面、3番・4番線は「船橋」方面に区分けされていました。
「柏」を跨いで「船橋」~「大宮」方面を直通する列車は構内配線の関係で2番・3番線に入線しますが、それ専用と言う訳でもなく当駅始発列車も使います。
例えばこれは3番線に停車中の6時14分発「船橋」行きですが、当駅始発でした。
因みに野田線の列車は、どれを撮っても8000系6連です
一方2番線の「運河」行きは、当駅を跨いで運行される列車で
「船橋」を5時47分に出発し、「柏」に6時17分着
そして、6時37分に出発して行きました。
<「太田」駅 2012年8月15日>
ここはホームが少し変わっていて、3面6線構造なのに1番から
10番線まで有るのですが、その訳は
伊勢崎線の運転系統がここで分断され、「太田」~「伊勢崎」の区間列車専用ホーム(7番~10番)が1番~4番ホームの先に設けられている、と言うのが種明かしです。
確かに放送で「乗り換えは2番線の伊勢崎寄りにお進み下さい」と言うより、「~8番線にお進み下さい」と言い切った方が分かり易い、と思いました。
こちらは周辺のJR(黒い線)と東武鉄道(カラーの線)の路線図
そしてこちらが、東武の運転系統図です。
地方都市の私鉄駅としてはかなり立派な「太田」駅ですが、
北関東随一の工業都市の玄関口となればさも有りなん、と納得しました(因みにJRは無く、東武鉄道のみの駅)。
コンコース内に設けられたホーム案内板はこんな感じ、そして
こちらは1番ホームと7番ホームの境に有る案内板で、この先に浅草方面の列車が発着します。
丁度9番線には13時43分発、「伊勢崎」行き普通800系3連が入線していて
隣の4番線に到着した13時31分発「赤城」行き特急から降りたお客さんが、乗り換えていました。
<「綾瀬」駅 2012年8月8日>
ここはJR東ではなく、東京メトロの管轄駅です。
東京メトロが綾瀬車両基地を作る時、北千住~綾瀬~北綾瀬の路線を自前で建設したのでそうなった様ですが、常磐線が複線だった1971年(昭和46年)までは国鉄の駅でした。
駅の看板は、こんな形で
券売機は、左隅にJR仕様の物が2台有りますが
残りは、全て東京メトロ仕様です。
そして東京メトロの券売機には、こんなボタンが有りました。
東京メトロの初乗り運賃は160円なのですが、JR東との協定により、「綾瀬」~「北千住」間はJR側に合わせて130円です。
中は2面4線構造で、「北綾瀬」への区間列車用に上りホームを延長した0番線ホームが有りました。
上り線ホームの「亀有」寄りから「北千住」方面を見た所、
同じ場所で振り返ると、0番線ホームです。
<「飯田橋」駅 2012年7月8日>
ここは幾つも面白い点が有ります。
(1)5つの路線(内4本は地下鉄)の接続駅
(2)構内は3つの区に跨り、8層構造
(3)東西南北が揃う
接続する5つの路線は
①JR総武線
②東京メトロ東西線
③東京メトロ有楽町線
④東京メトロ南北線
⑤都営地下鉄大江戸線
の順に作られました。
副都心の渋谷/新宿/池袋でも地下鉄は3本ですから、ここは「大手町」(地下鉄5本)に次ぐ規模、と言う事になり
また、東西線と南北線が接続する唯一の駅です。
駅の有る場所は千代田区/新宿区/文京区の境界に当たり、JR総武線の駅は千代田区に属しますが、
②東京メトロ東西線は 千代田区
③東京メトロ有楽町線は 新宿区
④東京メトロ南北線も 新宿区
⑤都営地下鉄大江戸線は文京区
に分散して作られました。
地上の2層に対して、地下は6層構造になっています。
まずは総武線ですが、やって来ました列車は日曜の5時なので総武線ではなく、中央線の「東京」行きでした。
(飯田橋でも客扱いします)
次に東西線ですが、東葉高速線直通「東葉勝田台」行きの05系10連をパチリ(動画から切り出しましたので、色合いが変?)
3番目の南北線は1面2線構造でホームゲートが有るため、
列車は撮れませんでした
次の有楽町線も1面2線構造でホームゲートも付いていますが、こちらは後付けタイプのため
やって来ました、「和光市」行き10000系10連をパチリ
最後は、一番深い所に有る大江戸線です。 中は1面2線で、「都庁前」行き12-000系8連の出発を、後撃ちしました。
<西武園周辺 2012年6月29日、7月4日>
ここは狭いエリアの中に西武鉄道の4つの支線が集まり、3つの終着駅が有ります。
略図を拡大しますと、これだけのレジャースポットが有りました。
まず「西所沢」11時12分発、「池袋」始発の準急「西武球場前」行き新2000系10連が、狭山線に進入する所から始めます。
こちらは1本後の、11時27分「西所沢」始発「西武球場前」行き新2000系4連で、これに乗って行きました。
狭山線終点「西武球場前」駅の「西所沢」方末端部で、単線から6本の線路が分岐し
中は3面6線構造で、全てのホームが20m級10連用です。
次は「西武球場前」から新交通システムの山口線(レオライナー)に乗り、「西武遊園地」へ向かいました。
昔バッテリーカーの時に乗った記憶は有りますが、その後のミニSL時代は記憶に有る様な無い様な、はっきりしません(^^;
列車は4両編成で、無人ではなくワンマン運転です。
「西武遊園地」駅に着いた所ですが、
中は1面3線構造で、
1番線には、多摩湖線「小平」行きの新2000系4連が停まっていました。
駅前の階段を上がりますと、正面が「西武園ゆうえんち」の中央ゲートです。
「西武遊園地」から10分ほど歩いて、西武園線の「西武園」駅に着きました。 競輪場の有る北口は殺風景ですが
南口は、普通の佇まいです。
中は2面3線構造で、通常は2番線が使われ、右端の1番線は競輪の有る時だけ使われる様でした。
列車は、新101系4連です(終点「武蔵村山」にて撮影)。
<JR鶴見線「浅野」、「海芝浦」駅 2012年6月24日>
「浅野」は鶴見線(本線)の途中駅であると共に、
海芝浦支線の起点で、支線用のホームはカーブ上に有るため三角形をしています(線路配置は略図レベル)。
鶴見寄りから見ました左端が本線ホーム、中央が3番ホーム、右端が4番ホームで
カーブはかなりきついため、
電車のドアとホームの隙間が広目です。
(列車は「鶴見」発「海芝浦」行き、205系1100番台3連)
この列車に乗り「海芝浦」まで行きましたが、途中の「新芝浦」を過ぎますと某社の敷地に入り、線路も単線になりました。
「浅野」から4分ほどで「海芝浦」に到着
ホームは片面1線で、すぐ横は京浜運河です。
「海芝浦」駅もその会社の持ち物で、駅舎(通用門?)の外側に守衛さんが仁王立ちしていました(^^;
社員か関係者以外は駅を出る事は出来ません(駅外側に有る、自動券売機を利用する事は可能)が、駅の前方に某社が作った公園が有り、
一般人も、列車の出発時刻まで過ごす事が出来ます。
<JR鶴見線「武蔵白石」、「大川」駅 2012年6月20日>
「武蔵白石」は鶴見線(本線)の途中駅であると共に、
大川支線の起点なのですが、現在ここからは「大川」行き列車に乗れないのです。
1996年(平成8年)に、「大川」行きのホーム(赤い線の部分)が撤去されてしまったのですが、その理由は
大川支線専用のクモハ12形(17メートル級両運車)が引退し、後を継いだ103系の走行に4番線が支障するから、との事。
今でも大川支線の起点なので0キロポストを探しましたが、草が茂っていて見付けられませんでした
「大川」へ行くため、一つ隣の「安善」駅へ戻ります。
「安善」とは、安田財閥創業者の安田善次郎の名前に由来するそうで、駅に隣接して米軍の貯油施設が有り、横田基地向けの「米タン」が居ました。
「安善」駅の先で上り線に転線後、大川支線に分岐しますので、下り本線とは別の出発信号(右下)が有ります。
205系1100番台3連が「武蔵白石」をかすめ、超低速で終点「大川」駅(左下)へ進入する所をパチリ
構内には片面1線のホームと、
無人の駅舎
そして、使われていない側線が何本も有りました。
駅の周りは工場ばかりで、民家やお店は一軒も有りません。
この列車は8時49分発「鶴見」行きですが、次は17時24分まで無い、という超閑散ぶりです
<西武鉄道池袋線「飯能」駅 2012年6月11日>
ここは、平地のスイッチバック駅です。
右手が「池袋」方(複線)、左端が「西武秩父」方(単線)、そして
ホームの反対側は、先の方で行き止まりになっていました。
かつてはE851が牽引するセメント輸送列車も、ここで方向転換していたのでしょうか?
内部は3面4線構造で1番線から5番線まで有り、
9時49分始発の「池袋」行き急行30000系10連が
1番線ホームから出発する所です。
次は武蔵丘車両基地から出庫して来た2000系ですが、動画の出来が良く有りませんでしたので、使えそうな静止画を切り出しました。
4番線に入線し、9時59分始発の「池袋」行き準急になります。
<「寄居」駅 2012年6月7日>
ここは八高線/秩父鉄道/東武東上線が集まる駅で、改札口が自由通路上の1箇所のため、その中に八高線と東上線用の跨線橋が設けられています。
①唯一の改札口で、駅管轄が秩父鉄道のため、鉄道会社間の乗り換え改札口は有りません。
②改札口右手の券売機で、個々の線名が書かれています
(後から気付きましたが、駅構内の見取り図が有りましたね)
③八高線ホームから撮りました駅本屋と、秩父鉄道ホーム用の階段です。
④八高線用の跨線橋とエレベータです。
⑤八高線用の跨線橋内部です。
⑥東上線用の跨線橋内部です。 乗り換え改札口の代わりに、簡易ICカードリーダが有りました。
おまけは、3線同時着発の動画です。
最初から意図していた訳では無く、8時11分発の下り「三峰口」行きの秩父鉄道が到着する所を撮っていましたら偶然、東上線もやって来て、撮れてしまいました。
撮り終わって駅に戻りかけましたら、今度は八高線が発進して来ましたので、慌てて撮った次第です(^^;
後で時刻表を調べました所、秩父鉄道は8時10分着/11分発、東上線は8時11分着、八高線は8時11分発でした。
<西武鉄道池袋線「池袋」駅 2012年5月29日>
ここの特急列車ホームは、一風変わっています。
駅内部は4面4線構造ですが、小田急の様に特急列車ホームが独立しておらず、一般列車と直列停車する形になっていました。
右端がくだんの7番線ですが、
上の写真位置前方に一般列車が、後方に特急が入ります。
特急の入線から出発までを時系列に撮りましたが、ラッシュ時と言う事で人波が多く、後半コンデジの不調も有り、画像の出来は今ひとつですがご勘弁下さい m(__)m
まず、目白寄りの側線で待機していた特急ちちぶが
専用ホームに入線した所です。
特急の発車前に2本、同ホーム着発の列車が有りました。
こちらが1本目の、8時14分発「保谷」行き各停3000系8連で
2本目は、回送になる2000系8連です。 この辺からコンデジが絶不調に 特急との距離は、車両1両分程度でしょうか?
そして8時30分、「西武秩父」行き特急ちちぶ10000系7連が出発して行きました。
実はこの画像、1本前の7時30分発の画像でして、8時30分に撮りました方はコンデジ不調のため、写っていませんでした
また、8時30分の直前に隣の6番線に到着した列車からの下車客でホームがごった返していた、と言う別の事情も有ります。
<「小竹向原」駅 2012年5月15日>
駅の場所が練馬区小竹(こたけ)町と板橋区向原(むかいはら)に跨るため、この名前になったそうです。
家から近いので、またまた原チャリで行って来ました
普段利用されない方も、数年前この駅が原因となって何日間もダイヤが乱れ、マスコミを賑わしたのを覚えてらっしゃるのでは ないでしょうか?
ここは4系統の列車が離合集散する地下鉄のジャンクションで、それを聞いただけで早くもトラブルの予感が...
路線数は東京メトロ有楽町線/副都心線、西武有楽町線の3本になり、「小竹向原」から「池袋」までの間は2層式の地下複々線(有楽町線が上)です。
また、「和光市」「小竹向原」の間は唯の複線ですが、東京メトロ有楽町線と副都心線の共用扱い、との事。
構内配線はこんな感じになっており、
一番目の系統図と合わせて御覧頂くとお分かりの様に、駅右手において一部系統の列車が平面交差する 事になります。
結果、運転調整しずらい欠点が生じ、その対策用にダンパー線区間を設けた、との事。
ダンパーとは緩衝装置の意味で、遅れが生じた時はこの区間に列車を退避させ、次の列車を駅に進入・客扱い出来る様にするためのものだそうです(6線構造になっていますね)。
これだけ準備しても2008年の副都心線開業時には、慢性的な遅れが生じ、連日マスコミを賑わせました。
流石に最近は運転指令も慣れて来たのか、マスコミに取り上げられる事も無くなった様です
ホームは2面4線構造で、方向統合されていました。
こちらは上りホーム1番線で、列車は副都心線「渋谷」行き各停東京メトロ7000系8連の最後尾ですが、
副都心線内はワンマン運転になるため、車掌さんはここで下車します。
同じく1番線ですが、今度は有楽町線「新木場」行きの東京メトロ10000系10連で、
有楽町線はワンマン運転せず、車掌さんは乗ったままでした。
こちらは2番線の、副都心線「渋谷」行き急行の東武50070系 10連で(やはり車掌さんは、下車していますね)、
急行は、「池袋」までの途中駅「千川」「要町」を通過します。
時刻は日曜日の6時台でしたが、電車は引っ切り無しにやって来ました。
<東急「蒲田」駅 2012年4月23日>
2路線が発着する、頭端式ホームのターミナル駅です。
この構造の駅は阪急「梅田」が有名ですが、東京の私鉄には中々無いので取り上げました。
東京ではここ以外に、西武「国分寺」も2路線の発着駅ですが、きれいな櫛形構造にはなっていません。
ホーム先端から撮った、1番線に停車中の池上線「五反田」行き7000系(2代目)3連です。
池上線・多摩川線ともワンマン運転のため、ホームに安全柵が設置されていました(降車ホームには無い様です)。
その右手に2番線、降車ホーム、3番線と続きますが、一番右の4番線はカメラに入りませんので、
そこだけ別に、降車ホームの根元側から撮りました。
停まっているのは多摩川線「多摩川」行き7700系3連で、
前身の7000系(初代)共々、地方私鉄で良く見かけますね
多摩川線は元の目蒲線(目黒~蒲田)の一部で、その目蒲線は東急発祥の路線だそうです。
2000年に「目蒲線」が「目黒線」と「多摩川線」に分かれるまで路線網はこんな感じでしたが、
その後、この様に変わりました。
田園調布~日吉間は複々線になっています。
<小田急江ノ島線「藤沢」駅 2012年4月11日>
平地のスイッチバック駅です。
ホーム有効長は1番線が10両、その他は6両でした。
右端の特急が入線しているのが1番線、中央が2番/3番線、左端の普通列車が居る所が4番線です。
新宿方面からの急行が、東海道本線(右手)をオーバークロスし1番線に進入する所を撮りました。
左端の線が片瀬江ノ島への線、その右手は2本に分岐し、片瀬江ノ島方からの上り線と新宿方面への上り線になります。
(右端は、保線車両用の引込み線)
平地駅をスイッチバックにする場合は何かしらの理由が有る訳ですが、調べますと当時の鉄道省の指導によるものでした。
「藤沢」に進入してそのまま「片瀬江ノ島」へ向かうと、江ノ電と同じ経路になってしまうので別ルートにするためスイッチバックにせざるを得なかったとの事です。
<JR飯田線「豊橋」駅 2012年3月18日>
右手ホーム右側の3番線に名鉄が発着しますが、JRとの間に乗り換え改札口が有りません(精算出札の窓口は有ります)。
飯田線前身の豊川鉄道の時代から、豊橋駅共同使用の歴史が有るためでしょうか?
<JR飯田線「小和田(こわだ)」駅 2012年3月18日>
秘境駅ランキング2位で車が通れる道が無いとの事。 ホームに「三県境界駅」の表示が有りました(左端の柱下部)。
駅の有る場所は静岡県、川向こうが愛知県、そして右手方向がすぐ長野県だそうです。
<秩父鉄道「小前田(おまえだ)」駅 2011年7月15日>
寄居の2駅手前(羽生寄り)に有りますが、
車内アナウンスは「次は、おまえだ おまえだ です」と言うのでしょうか?
手前が駅舎に続くホームで、下り(三峰口方面)列車が止まる様です。 奥に見えるホームは、上り(羽生方面)用でした。
2本のホームは向かい合わせではなく筋交いに配置され、後で調べましたら「千鳥式ホーム」と言うのだそうです。 この配置のメリットは、タブレット交換が楽との事でした。
<JR指宿枕崎線「枕崎」駅 2011年1月26日>
以前は「日本最南端始発・終着駅」だったのですが、沖縄の那覇にモノレールが出来ましたので、「JR」が追加されたそうです。
因みに「JR日本最南端の駅」は、同線の「西大山」です。
<伊予鉄道「古町(こまち)」駅 2010年12月16日>
鉄道線の高浜線と軌道線の接続駅で、鉄道線/軌道線両方の車庫が有りました。
写っているのは、鉄道線の700系(元京王電鉄5000系)で、
軌道線の方はこの付近、単線の専用軌道です。
手前のホームは軌道線用で、赤い矢印の様に軌道線と鉄道線が平面交差していました。
写真では分かりにくいのですが、右手側に何本も有る鉄道線の線路を、単線の軌道線の線路が斜めに横切る構図です。
他所では中々見られない光景ですが、鉄道線の電圧が600Vで軌道線と同じ、というのが種明かしでした
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