おもしろ駅探訪(過去記事その2) [鉄道(実物)]
過去に掲載しました「おもしろ駅探訪」シリーズの閲覧場所②で2013年7月以降の記事を集めました。
なお6月以前の記事は、(過去記事その1)に分割しています。
2月に「塩尻」駅を追加しました。
<塩尻 2014年2月13日>
ここは1982年(昭和57年)に駅が現在の場所に移転しましたので、旧駅の名残を追って見ました。
①現在の駅(東口)から東南方向に10分ほど歩きますと
②旧駅の場所に着き、そこにはスポーツ施設が建っています。
(階段や石垣は、当時のものかも?)
建物裏手のホーム跡(列車の中から見ると良く分かりました)
こちらは近くの商業ビル屋上駐車場から見下ろした所で、下の駐車場は駅前広場だったのかもしれませんね。
旧駅時代、名古屋と長野を結ぶ列車は方向転換を余儀なくされそれが駅を移転するきっかけになった様です。
(その頃、名古屋と東京を直通する列車は既に無かった?)
駅が北西方向に移転し、配線はこうなりました。
旧線はそのまま残され、デルタ線を構成しています。
その後、1983年(昭和58年)に塩嶺トンネルが開通し、現在のルートになりました。
③名古屋方面から見た現在の中央本線(駅は左前方)と、右にカーブする単線の旧線です。
④最後に、駅西口に戻って来ました。
次は駅構内南端から、東京方面/名古屋方面の線路がY字に分かれる所をパチリ
<東京方面>
<名古屋方面>
この駅は中央本線(東京、名古屋方面)、篠ノ井線(長野方面)、中央本線支線(辰野方面)と4方向に線路が伸びる要衝であり、構内は3面6線と広いです(右端から左へ1番~6番ホーム)。
ホームを行き来して、次々に発着する列車を撮りました。
まず1番線に到着する、「新宿」行き特急あずさE257系11連
2番線に停車中の、「松本」行き115系6連
3番線に停車中の、「辰野」行きE127系2連
4番線から出発する、「松本」行き313系2連
5番線に到着する、「名古屋」行き特急しなの383系6連です。
<和歌山市 2014年1月25日>
ここは南海以外に、JR紀勢本線の終点でもあるのですが
その乗り場は、2番線(片面1線)しか有りません。
それもそのはず、ここから「新宮」方面へ向かう列車は無く、2駅先の「和歌山」駅との間を105系が細々と走っています。
こちらは「和歌山」方ですが架線柱の形状からして、昔は右手に1番線が有ったのではないかと...
現在、紀勢本線の運行上の基点は「和歌山」駅に移ってしまい、何故そうなったのか歴史的経緯を調べてみました。
(もし間違いが有りましたら、ご容赦下さい m(__)m)
和歌山市中心部の路線図は現在こんな感じで、
調べますと「紀和」が一番古く次ぎが「和歌山市」、最後に出来たのが「和歌山」駅になります。
「紀和」は1898年(明治31年)、紀和鉄道(現JR和歌山線)の「和歌山(初代)」駅として開業
「和歌山市」は1903年(明治36年)、南海鉄道の終着駅として開業し、合わせて紀和鉄道も乗り入れました。
1924年(大正13年)に、紀勢西線の開通に合わせ「東和歌山(現在の和歌山)」駅が開業、
さらには1930年(昭和5年)、「東和歌山」駅に乗り入れ始めた阪和電気鉄道が
1944年(昭和19年)に国有化されて国鉄阪和線となり、大阪と紀州方面が国鉄のみで繋がる事になりました。
これによって「東和歌山」駅の重要度が一段と増したのに反し、「和歌山市」との間は盲腸線化して行った訳です。
総仕上げが1968年(昭和43年)の駅名変更で、「東和歌山」が「和歌山(二代目)」を襲名し、名前を譲った「和歌山(初代)」は「紀和」に変わりました。
今回電車の画像が少なかったので、「和歌山市」駅で見掛けた南海線車両の方も載せておく事に...
まず、3番線の加太線直通7100系2連
次ぎが5番線の「なんば」行き普通8000系4連(左隣が4番線)
最後が6番線です(右手側線に7000系6連が)。
<都庁前 2013年10月16日>
ここは都営地下鉄・大江戸線の起点(終点は「光が丘」)ですが、途中駅でもあります。
中は2面4線構造で、こんな配線になっていました。
1番線は、「光が丘」から反時計回りに都心へ向かう列車用
2番線は、時計回りに都心へ向かう始発列車用
3番線は、「光が丘」から出発した列車の終着ホーム
3番線に到着した列車は(2番線側から撮影)
前方の引き上げ線に入って、折り返し2番線から出発します。
4番線は、都心を回って来た「光が丘」行き列車用
という使い方になっていました。
起点駅なので、2番/3番線中央に0キロ表示が有ります。
<大垣 2013年10月13日>
東海道本線以外にも赤坂支線、養老鉄道、樽見鉄道が有り
それらのホームが皆、ちょっと面白い構造をしていました。
赤坂支線(黄色)の3番線と樽見鉄道(水色)の6番線は切り欠きホーム、養老鉄道(赤色)は平地形スイッチバック駅です。
<1. 東海道本線支線(通称「美濃赤坂線」)ホーム>
JR2番/4番線の「米原」方が切り欠きホームの3番線になり、
「美濃赤坂」行き313系ワンマン2連が居ました。
1919年(大正8年)、美濃赤坂周辺で摂れる石灰石や大理石を搬出するために建設された支線だそうです。
(日本初の内燃動車キハニ5000形が走っていたとか)
<2. 養老鉄道線ホーム>
ここはJR南口横に自前の駅舎を持ち
スイッチバック構造になっていますが
西武池袋線「飯能」の様な直通列車は無く、時刻表を見た限り「桑名」方面と「揖斐」方面の運転系統は分断されていました。
(乗継の便は考慮されている様ですが)
こちらはホーム先端からの画像で、1番線(右側)の「桑名」行き600系3連、2番線(左側)「揖斐」行き2連共々、
当駅始発です。
<3. 樽見鉄道線ホーム>
JR5番/7番線の「岐阜」方が切り欠きホームの6番線になり、
連絡改札口は設けられていません。
こちらが反対側から見た所で
ホームには、「樽見」行きハイモ295-617が居ました。
余談ですが、こちらはひたちなか海浜鉄道「勝田」駅にて撮った「阿字ヶ浦」行きのミキ300形で
両者共、廃止された三木鉄道から来た車両です。
(ここのホームも、JRのそれを一部切り欠いていました)
それから駅に纏わる話題と違いますが、「大垣」~「関ヶ原」間の貨物用迂回線のお話を...
「大垣」から「関ヶ原」に向かう下り線は最大25パーミルの上り
勾配のため、下り貨物列車用に勾配を緩和した迂回線が設け
られています。
管理人は「米原」から「大垣」へ向かう車中で、この迂回線に入る貨物列車を見掛けたのですが、撮り損ないました m(__)m
<(京急)蒲田(その2) 2013年9月10日>
京急一規模の大きい蒲田駅を取り上げる第2回目で、
ここは空港線が分岐するため運転系統が3つ有り、構内構造もそれに合わせた作りになっています。
前回は3階の下り線ホームをレポートしましたので
今回は、2階の上り線ホームに降りて来ました。
1番線/4番線は空港線方面、
2番線/5番線は緩急接続時、普通列車が退避、
3番線/6番線は本線用
と言った区分です。
この付近の4番線(左手)に空港線の分岐が有り
本線・横浜方面(右手)から到着した列車の最後部をパチリ
ここで車掌さんから運転士さんに交代し、
折り返して、空港線に入って行きました(後撃ち画像)。
列車は下段の高架を走って、羽田空港へ向かいます。
ホームをさらに横浜方面に歩くと5番線になりますが
緩急接続が無かったので、「品川」行き普通800系6連は
5番線は使わず、その先の6番線に停まりました。
これにて一通り構内のレポートを終え、後は空港線に絡んだ残り3パターンの運行形態を載せる事に致します。
<羽田空港→横浜方面へ向かう列車>
下り線に入る必要が有りますので、上段高架を走り
3階の1番線に入線した後、横浜方面へ折り返し
<品川方面→羽田空港へ向かう列車>
本線を下って来て3階の1番線に入り
そのまま前進して空港線に進入(後撃ち画像)、
上段の高架を走って羽田空港へ
<羽田空港→品川方面へ向かう列車>
上り線に入る必要が有りますので、下段高架を走り
2階の4番線に入線した後、そのまま品川方面へ前進
分かり難くかったかもしれませんがここから空港線に乗る場合、列車によって停まる階が違いますので、慣れるまでは戸惑ってしまうかもしれませんね!
空港線の次駅「粕谷」までは単線並列の形になり、シーサスが設けられていました。
最後に、「粕谷」→「(京急)蒲田」の先頭車窓動画です。
この列車は「(京急)蒲田」止まりで横浜方面へ回送となるため、3階の1番線に入りました。
<(京急)蒲田(その1) 2013年9月7日>
京急一規模の大きい蒲田駅を取り上げる第1回目です。
ここで空港線が分岐するため、運転系統が3つ有りました。
駅は3階建てで、1階が駅舎、2階が上り線ホーム
3階が下り線ホームになり
1番線/4番線は空港線方面、
2番線/5番線は緩急接続時、普通列車が退避、
3番線/6番線は本線用
と言った区分です。
想像するに、
①本線と空港線の立体交差が必要
②本線用の待避線が必要
③ホームを全て並列配置する用地が無い
などの理由から、上記の構造になったのではないかと...
3階の「品川」方から順番に、構内を巡って見ました。
<「品川」方の先端部>
<そこから「横浜」方を振り返った所>
右手の3番線は本線の優等列車が停まりますので12両分、
その先2番線は普通列車用ですので6両分、合わせてホームは18m級車両18両分の長さが有り、先端まで見えません(^^;
<1番線>
品川方面から羽田空港へ向かう、急行2000系8連最後部
<3番線>
本線を下る、「三崎口」行き特急1000系8連最後部
<空港線分岐部>
丁度この付近の左手1番線に、分岐が有ります。
羽田空港へ向かう北総鉄道7500形8連最前部
そして、出発後の後撃ち画像
続いて千葉ニュータウン鉄道からの乗入車9200形8連
<2番線>
一番「横浜」寄りに有り、
切り欠きホームになっていました。
撮影の間(平日朝6時台)ここに入線する列車は無く、もっと遅い時間帯に使われるのでしょうか?
こちらは「京急久里浜」行き普通1500系6連ですが、当駅での緩急接続が無いため、2番線ではなく3番線に停まりました。
<「横浜」方終端部>
漸く辿り着いた~っと言った感じで、残りの分は次回に...
<東武西板線界隈(その2) 2013年8月19日>
幻の東武西板線に縁の駅を取り上げる第2回目です。
西板線は大正期に東武伊勢崎線と東上線の連絡用に計画され1931年(昭和6年)「西新井」~「大師前」間が開通しましたが、その後路線予定地が急速に市街化し、経済恐慌も起きたため「上板橋」への延伸は断念された、との事
<「西新井」駅>
西板線の起点になるはずだった「西新井」駅には
大師線専用ホーム(右から1番線、2番線)が有りますが
1番線には起点から100mを示す丙号距離標しか無く
肝心の0キロポストは、駅中央部の2番線脇に有りました。
<「梅島」駅>
ここは「西新井」の一つ手前の駅で、西板線と縁は無いのですがちょっと面白いので取り上げる事に...
この駅は用地幅が狭いので、上下線のホームが一直線に配置されており
こちらが、1番線の浅草方からホーム中央方向を望んだ所で、
中央部に手前からエスカレータ、階段、エレベータが並び
その先に、2番線が続いています。
記事を書いていて気付きましたが、急行線を行く列車を入れて撮れば良かったですね m(__)m
次ぎは東上線に移ります。
<「上板橋」駅>
西板線の終点になるはずでしたが、
この辺りは着工もされませんでしたので、
駅付近に、遺構と言える様なものは見当たりませんでした
唯一残っているものとしては、操車場予定地跡地かと...
現在の「ときわ台」駅の北側に広がる住宅地が、元は西板線の操車場予定地だったそうです。
ここは「上板橋」、「ときわ台」駅の中間地点で全くの想像ですがこの付近から西板線が分岐する予定だったのでは?
西板線頓挫を受け、1935年(昭和10)年に東武鉄道が跡地を「常盤台住宅地」として分譲、「武蔵常盤」駅も新設しました。
<「ときわ台」駅>
その「武蔵常盤」は、1951年(昭和26年)「ときわ台」に改称
駅名は「ときわ台」ですが、所在地は「常盤台」になり
田園調布をお手本にした区画割りのここは、東上線を代表する高級住宅街(残念ながら、管理人は隣町の住人)です。
こちらは駅前ロータリー
調べましたら操車場予定地は一時、遊覧飛行場だったそうで、管理人はこの駅を60年ほど利用していますが、初耳でした
資料から再現しますと、こんな感じではなかったかと...
羽田や成田も滑走路は似たような方角ですので、関東近辺ではこの向きが風に対して最適なんでしょうか
<東武西板線界隈(その1) 2013年8月7日>
幻の東武西板線に縁の駅を取り上げる第1回目です。
(西板線の由来は、前出「東武西板線界隈(その2)」に記載)
<「大師前」駅>
元々は、西板線(第一期工区)の仮終端駅でした。
北側に駅名の由来になった西新井大師(総持寺)が隣接し、
こちらは反対側の南側で、ビル3階にホームが有ります。
開業当初、駅はもう少し先でしたが、
1968年(昭和43年)環七通り拡幅のため、現在の場所に後退しました。
この8000系2連1本が、隣駅の「西新井」との間をピストン運行していて
ホームは片面1線ですが、赤点線から右側は線路が敷ける様になっており、その上に蓋をしてあるのだとか...
突き当たりの窓からは、廃線跡と思われる空き地が見えましたのでパチリ
反対にこちらが、ホーム先端から見た「西新井」方です。
「大師前」は紛れも無い終端駅なのですが、
日暮里・舎人ライナーの「西新井大師西」駅が2キロ圏内に有りますので
「行き止まり駅訪問」シリーズの条件に合わない、と半ば諦めていました所、「おもしろ駅探訪」の方で取り上げられました
ここは都内では珍しい無人駅で、改札は有るもののフリーパス、パスモ・リーダも設置されていません。
券売機の所もシャッターが降りていて、
正月など多客時には開く様ですが、その場合でも改札は無人、との事
電車はワンマンですから、車内出札・改札は出来ません。
<「西新井」駅>
ではどうするかと言いますと、大師線起点の「西新井」駅に
専用ホーム(右から1番線、2番線)が有るのですが
ここと伊勢崎線ホームの間に、券売機と
連絡改札口が設けられているのです。
逆に大師線に乗る場合は、この連絡改札口で切符を回収されてしまう方式でした。
この続きは次回と致します。
<「羽生」 2013年7月7日>
ここは東武伊勢崎線と秩父鉄道の接続駅で
色々、面白い点が有りました。
<秩父鉄道の0キロポスト>
秩父鉄道の起点駅ですので、5番線には0キロポストが...
実は途中の「熊谷」駅にも0キロポストが有りまして、
元は2つの私鉄だったため、こうなったそうです。
1921年(大正10年)、北武鉄道として「羽生」~「行田市」間を開業しましたが、翌年、秩父鉄道がこれを合併した、との事
<4番線の次ぎは4番線>
現地に行って初めて知りましたが、右側の7800系が居る所が秩父鉄道の4番線で、
(秩父鉄道側の案内板)
左隣の東武伊勢崎線ホームにも、4番線が有りました。
構内配線はこんな感じになっており、
10030系が停車している2番線が元の1番線で、
その左側に待避線を新設したのに伴い番号を一つずつずらしたのですが、秩父鉄道側は変更しなかったのでこうなったとか
<東武車両の秩父鉄道乗り入れ>
秩父鉄道を経由して、東武の本線系統と東上線系統の車両が行き来する事は良く知られていますが、
図にも有ります西板線が実現していたら、秩父鉄道のお世話にならずに済んだものを...
配線図を見るとお分かりの様に、伊勢崎線の下り線浅草方から延びた側線が、秩父鉄道の本線に繋がっています。
秩父鉄道のホーム端から浅草方を見ますと、右側3本の線路が前方で左端の伊勢崎線の線路に合流していました。
記事を書いていて気付きましたが、秩父鉄道の終点「三峰口」もホームの先まで線路が延びていて
起点/終点とも、頭端式でないのは面白いですね
最後におまけで、7800系の出発動画を一つ
なお6月以前の記事は、(過去記事その1)に分割しています。
2月に「塩尻」駅を追加しました。
<塩尻 2014年2月13日>
ここは1982年(昭和57年)に駅が現在の場所に移転しましたので、旧駅の名残を追って見ました。
①現在の駅(東口)から東南方向に10分ほど歩きますと
②旧駅の場所に着き、そこにはスポーツ施設が建っています。
(階段や石垣は、当時のものかも?)
建物裏手のホーム跡(列車の中から見ると良く分かりました)
こちらは近くの商業ビル屋上駐車場から見下ろした所で、下の駐車場は駅前広場だったのかもしれませんね。
旧駅時代、名古屋と長野を結ぶ列車は方向転換を余儀なくされそれが駅を移転するきっかけになった様です。
(その頃、名古屋と東京を直通する列車は既に無かった?)
駅が北西方向に移転し、配線はこうなりました。
旧線はそのまま残され、デルタ線を構成しています。
その後、1983年(昭和58年)に塩嶺トンネルが開通し、現在のルートになりました。
③名古屋方面から見た現在の中央本線(駅は左前方)と、右にカーブする単線の旧線です。
④最後に、駅西口に戻って来ました。
次は駅構内南端から、東京方面/名古屋方面の線路がY字に分かれる所をパチリ
<東京方面>
<名古屋方面>
この駅は中央本線(東京、名古屋方面)、篠ノ井線(長野方面)、中央本線支線(辰野方面)と4方向に線路が伸びる要衝であり、構内は3面6線と広いです(右端から左へ1番~6番ホーム)。
ホームを行き来して、次々に発着する列車を撮りました。
まず1番線に到着する、「新宿」行き特急あずさE257系11連
2番線に停車中の、「松本」行き115系6連
3番線に停車中の、「辰野」行きE127系2連
4番線から出発する、「松本」行き313系2連
5番線に到着する、「名古屋」行き特急しなの383系6連です。
<和歌山市 2014年1月25日>
ここは南海以外に、JR紀勢本線の終点でもあるのですが
その乗り場は、2番線(片面1線)しか有りません。
それもそのはず、ここから「新宮」方面へ向かう列車は無く、2駅先の「和歌山」駅との間を105系が細々と走っています。
こちらは「和歌山」方ですが架線柱の形状からして、昔は右手に1番線が有ったのではないかと...
現在、紀勢本線の運行上の基点は「和歌山」駅に移ってしまい、何故そうなったのか歴史的経緯を調べてみました。
(もし間違いが有りましたら、ご容赦下さい m(__)m)
和歌山市中心部の路線図は現在こんな感じで、
調べますと「紀和」が一番古く次ぎが「和歌山市」、最後に出来たのが「和歌山」駅になります。
「紀和」は1898年(明治31年)、紀和鉄道(現JR和歌山線)の「和歌山(初代)」駅として開業
「和歌山市」は1903年(明治36年)、南海鉄道の終着駅として開業し、合わせて紀和鉄道も乗り入れました。
1924年(大正13年)に、紀勢西線の開通に合わせ「東和歌山(現在の和歌山)」駅が開業、
さらには1930年(昭和5年)、「東和歌山」駅に乗り入れ始めた阪和電気鉄道が
1944年(昭和19年)に国有化されて国鉄阪和線となり、大阪と紀州方面が国鉄のみで繋がる事になりました。
これによって「東和歌山」駅の重要度が一段と増したのに反し、「和歌山市」との間は盲腸線化して行った訳です。
総仕上げが1968年(昭和43年)の駅名変更で、「東和歌山」が「和歌山(二代目)」を襲名し、名前を譲った「和歌山(初代)」は「紀和」に変わりました。
今回電車の画像が少なかったので、「和歌山市」駅で見掛けた南海線車両の方も載せておく事に...
まず、3番線の加太線直通7100系2連
次ぎが5番線の「なんば」行き普通8000系4連(左隣が4番線)
最後が6番線です(右手側線に7000系6連が)。
<都庁前 2013年10月16日>
ここは都営地下鉄・大江戸線の起点(終点は「光が丘」)ですが、途中駅でもあります。
中は2面4線構造で、こんな配線になっていました。
1番線は、「光が丘」から反時計回りに都心へ向かう列車用
2番線は、時計回りに都心へ向かう始発列車用
3番線は、「光が丘」から出発した列車の終着ホーム
3番線に到着した列車は(2番線側から撮影)
前方の引き上げ線に入って、折り返し2番線から出発します。
4番線は、都心を回って来た「光が丘」行き列車用
という使い方になっていました。
起点駅なので、2番/3番線中央に0キロ表示が有ります。
<大垣 2013年10月13日>
東海道本線以外にも赤坂支線、養老鉄道、樽見鉄道が有り
それらのホームが皆、ちょっと面白い構造をしていました。
赤坂支線(黄色)の3番線と樽見鉄道(水色)の6番線は切り欠きホーム、養老鉄道(赤色)は平地形スイッチバック駅です。
<1. 東海道本線支線(通称「美濃赤坂線」)ホーム>
JR2番/4番線の「米原」方が切り欠きホームの3番線になり、
「美濃赤坂」行き313系ワンマン2連が居ました。
1919年(大正8年)、美濃赤坂周辺で摂れる石灰石や大理石を搬出するために建設された支線だそうです。
(日本初の内燃動車キハニ5000形が走っていたとか)
<2. 養老鉄道線ホーム>
ここはJR南口横に自前の駅舎を持ち
スイッチバック構造になっていますが
西武池袋線「飯能」の様な直通列車は無く、時刻表を見た限り「桑名」方面と「揖斐」方面の運転系統は分断されていました。
(乗継の便は考慮されている様ですが)
こちらはホーム先端からの画像で、1番線(右側)の「桑名」行き600系3連、2番線(左側)「揖斐」行き2連共々、
当駅始発です。
<3. 樽見鉄道線ホーム>
JR5番/7番線の「岐阜」方が切り欠きホームの6番線になり、
連絡改札口は設けられていません。
こちらが反対側から見た所で
ホームには、「樽見」行きハイモ295-617が居ました。
余談ですが、こちらはひたちなか海浜鉄道「勝田」駅にて撮った「阿字ヶ浦」行きのミキ300形で
両者共、廃止された三木鉄道から来た車両です。
(ここのホームも、JRのそれを一部切り欠いていました)
それから駅に纏わる話題と違いますが、「大垣」~「関ヶ原」間の貨物用迂回線のお話を...
「大垣」から「関ヶ原」に向かう下り線は最大25パーミルの上り
勾配のため、下り貨物列車用に勾配を緩和した迂回線が設け
られています。
管理人は「米原」から「大垣」へ向かう車中で、この迂回線に入る貨物列車を見掛けたのですが、撮り損ないました m(__)m
<(京急)蒲田(その2) 2013年9月10日>
京急一規模の大きい蒲田駅を取り上げる第2回目で、
ここは空港線が分岐するため運転系統が3つ有り、構内構造もそれに合わせた作りになっています。
前回は3階の下り線ホームをレポートしましたので
今回は、2階の上り線ホームに降りて来ました。
1番線/4番線は空港線方面、
2番線/5番線は緩急接続時、普通列車が退避、
3番線/6番線は本線用
と言った区分です。
この付近の4番線(左手)に空港線の分岐が有り
本線・横浜方面(右手)から到着した列車の最後部をパチリ
ここで車掌さんから運転士さんに交代し、
折り返して、空港線に入って行きました(後撃ち画像)。
列車は下段の高架を走って、羽田空港へ向かいます。
ホームをさらに横浜方面に歩くと5番線になりますが
緩急接続が無かったので、「品川」行き普通800系6連は
5番線は使わず、その先の6番線に停まりました。
これにて一通り構内のレポートを終え、後は空港線に絡んだ残り3パターンの運行形態を載せる事に致します。
<羽田空港→横浜方面へ向かう列車>
下り線に入る必要が有りますので、上段高架を走り
3階の1番線に入線した後、横浜方面へ折り返し
<品川方面→羽田空港へ向かう列車>
本線を下って来て3階の1番線に入り
そのまま前進して空港線に進入(後撃ち画像)、
上段の高架を走って羽田空港へ
<羽田空港→品川方面へ向かう列車>
上り線に入る必要が有りますので、下段高架を走り
2階の4番線に入線した後、そのまま品川方面へ前進
分かり難くかったかもしれませんがここから空港線に乗る場合、列車によって停まる階が違いますので、慣れるまでは戸惑ってしまうかもしれませんね!
空港線の次駅「粕谷」までは単線並列の形になり、シーサスが設けられていました。
最後に、「粕谷」→「(京急)蒲田」の先頭車窓動画です。
この列車は「(京急)蒲田」止まりで横浜方面へ回送となるため、3階の1番線に入りました。
<(京急)蒲田(その1) 2013年9月7日>
京急一規模の大きい蒲田駅を取り上げる第1回目です。
ここで空港線が分岐するため、運転系統が3つ有りました。
駅は3階建てで、1階が駅舎、2階が上り線ホーム
3階が下り線ホームになり
1番線/4番線は空港線方面、
2番線/5番線は緩急接続時、普通列車が退避、
3番線/6番線は本線用
と言った区分です。
想像するに、
①本線と空港線の立体交差が必要
②本線用の待避線が必要
③ホームを全て並列配置する用地が無い
などの理由から、上記の構造になったのではないかと...
3階の「品川」方から順番に、構内を巡って見ました。
<「品川」方の先端部>
<そこから「横浜」方を振り返った所>
右手の3番線は本線の優等列車が停まりますので12両分、
その先2番線は普通列車用ですので6両分、合わせてホームは18m級車両18両分の長さが有り、先端まで見えません(^^;
<1番線>
品川方面から羽田空港へ向かう、急行2000系8連最後部
<3番線>
本線を下る、「三崎口」行き特急1000系8連最後部
<空港線分岐部>
丁度この付近の左手1番線に、分岐が有ります。
羽田空港へ向かう北総鉄道7500形8連最前部
そして、出発後の後撃ち画像
続いて千葉ニュータウン鉄道からの乗入車9200形8連
<2番線>
一番「横浜」寄りに有り、
切り欠きホームになっていました。
撮影の間(平日朝6時台)ここに入線する列車は無く、もっと遅い時間帯に使われるのでしょうか?
こちらは「京急久里浜」行き普通1500系6連ですが、当駅での緩急接続が無いため、2番線ではなく3番線に停まりました。
<「横浜」方終端部>
漸く辿り着いた~っと言った感じで、残りの分は次回に...
<東武西板線界隈(その2) 2013年8月19日>
幻の東武西板線に縁の駅を取り上げる第2回目です。
西板線は大正期に東武伊勢崎線と東上線の連絡用に計画され1931年(昭和6年)「西新井」~「大師前」間が開通しましたが、その後路線予定地が急速に市街化し、経済恐慌も起きたため「上板橋」への延伸は断念された、との事
<「西新井」駅>
西板線の起点になるはずだった「西新井」駅には
大師線専用ホーム(右から1番線、2番線)が有りますが
1番線には起点から100mを示す丙号距離標しか無く
肝心の0キロポストは、駅中央部の2番線脇に有りました。
<「梅島」駅>
ここは「西新井」の一つ手前の駅で、西板線と縁は無いのですがちょっと面白いので取り上げる事に...
この駅は用地幅が狭いので、上下線のホームが一直線に配置されており
こちらが、1番線の浅草方からホーム中央方向を望んだ所で、
中央部に手前からエスカレータ、階段、エレベータが並び
その先に、2番線が続いています。
記事を書いていて気付きましたが、急行線を行く列車を入れて撮れば良かったですね m(__)m
次ぎは東上線に移ります。
<「上板橋」駅>
西板線の終点になるはずでしたが、
この辺りは着工もされませんでしたので、
駅付近に、遺構と言える様なものは見当たりませんでした
唯一残っているものとしては、操車場予定地跡地かと...
現在の「ときわ台」駅の北側に広がる住宅地が、元は西板線の操車場予定地だったそうです。
ここは「上板橋」、「ときわ台」駅の中間地点で全くの想像ですがこの付近から西板線が分岐する予定だったのでは?
西板線頓挫を受け、1935年(昭和10)年に東武鉄道が跡地を「常盤台住宅地」として分譲、「武蔵常盤」駅も新設しました。
<「ときわ台」駅>
その「武蔵常盤」は、1951年(昭和26年)「ときわ台」に改称
駅名は「ときわ台」ですが、所在地は「常盤台」になり
田園調布をお手本にした区画割りのここは、東上線を代表する高級住宅街(残念ながら、管理人は隣町の住人)です。
こちらは駅前ロータリー
調べましたら操車場予定地は一時、遊覧飛行場だったそうで、管理人はこの駅を60年ほど利用していますが、初耳でした
資料から再現しますと、こんな感じではなかったかと...
羽田や成田も滑走路は似たような方角ですので、関東近辺ではこの向きが風に対して最適なんでしょうか
<東武西板線界隈(その1) 2013年8月7日>
幻の東武西板線に縁の駅を取り上げる第1回目です。
(西板線の由来は、前出「東武西板線界隈(その2)」に記載)
<「大師前」駅>
元々は、西板線(第一期工区)の仮終端駅でした。
北側に駅名の由来になった西新井大師(総持寺)が隣接し、
こちらは反対側の南側で、ビル3階にホームが有ります。
開業当初、駅はもう少し先でしたが、
1968年(昭和43年)環七通り拡幅のため、現在の場所に後退しました。
この8000系2連1本が、隣駅の「西新井」との間をピストン運行していて
ホームは片面1線ですが、赤点線から右側は線路が敷ける様になっており、その上に蓋をしてあるのだとか...
突き当たりの窓からは、廃線跡と思われる空き地が見えましたのでパチリ
反対にこちらが、ホーム先端から見た「西新井」方です。
「大師前」は紛れも無い終端駅なのですが、
日暮里・舎人ライナーの「西新井大師西」駅が2キロ圏内に有りますので
「行き止まり駅訪問」シリーズの条件に合わない、と半ば諦めていました所、「おもしろ駅探訪」の方で取り上げられました
ここは都内では珍しい無人駅で、改札は有るもののフリーパス、パスモ・リーダも設置されていません。
券売機の所もシャッターが降りていて、
正月など多客時には開く様ですが、その場合でも改札は無人、との事
電車はワンマンですから、車内出札・改札は出来ません。
<「西新井」駅>
ではどうするかと言いますと、大師線起点の「西新井」駅に
専用ホーム(右から1番線、2番線)が有るのですが
ここと伊勢崎線ホームの間に、券売機と
連絡改札口が設けられているのです。
逆に大師線に乗る場合は、この連絡改札口で切符を回収されてしまう方式でした。
この続きは次回と致します。
<「羽生」 2013年7月7日>
ここは東武伊勢崎線と秩父鉄道の接続駅で
色々、面白い点が有りました。
<秩父鉄道の0キロポスト>
秩父鉄道の起点駅ですので、5番線には0キロポストが...
実は途中の「熊谷」駅にも0キロポストが有りまして、
元は2つの私鉄だったため、こうなったそうです。
1921年(大正10年)、北武鉄道として「羽生」~「行田市」間を開業しましたが、翌年、秩父鉄道がこれを合併した、との事
<4番線の次ぎは4番線>
現地に行って初めて知りましたが、右側の7800系が居る所が秩父鉄道の4番線で、
(秩父鉄道側の案内板)
左隣の東武伊勢崎線ホームにも、4番線が有りました。
構内配線はこんな感じになっており、
10030系が停車している2番線が元の1番線で、
その左側に待避線を新設したのに伴い番号を一つずつずらしたのですが、秩父鉄道側は変更しなかったのでこうなったとか
<東武車両の秩父鉄道乗り入れ>
秩父鉄道を経由して、東武の本線系統と東上線系統の車両が行き来する事は良く知られていますが、
図にも有ります西板線が実現していたら、秩父鉄道のお世話にならずに済んだものを...
配線図を見るとお分かりの様に、伊勢崎線の下り線浅草方から延びた側線が、秩父鉄道の本線に繋がっています。
秩父鉄道のホーム端から浅草方を見ますと、右側3本の線路が前方で左端の伊勢崎線の線路に合流していました。
記事を書いていて気付きましたが、秩父鉄道の終点「三峰口」もホームの先まで線路が延びていて
起点/終点とも、頭端式でないのは面白いですね
最後におまけで、7800系の出発動画を一つ
コメント 0